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彼は本当に分かっているのだろうか。
神楽の存在の有無によって、イルビナの権力構図が変化するかもしれないのだ。
民からの支持率が弱まった現在の軍では、変化の波を乗り越えるのは困難を極めるはず。
ここで国王側に釘を刺さなければ、後々面倒なことになるのは目に見えていると言うのに。
事の重要性を再度説こうと開いた唇は、しかし何を紡ぐことなく引き結ばれた。
意識の隅に追いやっていた痛覚が、思考の中心に躍り出る。
忌々しげに見下ろした腹部は、軍服の紅でも誤魔化せぬほど色を深めている。
悲鳴を殺した神楽の耳に、碧の一言が突き刺さった。
「自分の実力不足を恨め」
「っ!」
言い返すことは出来なかった。
碧の言葉は正しい。
神楽の戦闘能力が刺客を上回ってさえいれば、こんな事態に陥ってはいなかったのだ。
すべては怪我をした神楽が悪い。責めるべきは碧ではなく、神楽自身なのである。
己の不甲斐なさに憤りを覚える。悔しいと思ったのは、果たしてどれくらいぶりのことか。
馴染みのない感情は、焼けつくような痛みと共に全身を支配した。
「……下ろしてやろうか」
「え?」
「近衛のヤツらを牽制したら、すぐに治療を受けるんだろ」
「そのつもりですが……何を考えているんです?」
これは一体、どうしたことか。
思いがけないセリフに、神楽は驚愕で見開いた目をきつく眇めた。
探る視線を注げば、男の唇から牙さながらの犬歯が零れ出る。
真剣な表情が崩れ、現れたのは彼特有の傲然とした微笑。
「なら、媚びてみろ。てめぇの我儘を通したきゃ、俺の気が変わるように阿ればいい」
鼓膜を震わせた低音は、凶悪だった。
思考回路が停止するか、痛烈な反撃を繰り出すか。
平時の神楽であったなら、そのどちらかの反応を示していただろう。
口にした碧もまた、それを見越していたに違いない。
余裕を湛えた翡翠の眼には、侮るような色がある。
しかしながら、今の神楽は普段の彼ではなかった。
劣勢に立たされたイルビナ軍。
痛感させられた自らの脆い刃。
熱い血を滴らせる腹の深い傷。
彼を取り巻く容赦のない現実が、その行動に走らせた。
赤く染まった手を碧の後頭部に差し込むや、ぐいと力任せに引き寄せて。
「っ……!?」
強引に口づけた。
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