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「こういうことを控えろって言われてんだろ!」
「まだ要求を呑むかは決めていない」
「即決しろよ……」
衣織はがっくりと肩を落とすと、呆れたように呟いた。
入室の騒ぎ以来、静観を続けていた碧が口を開いたのは、そのときである。
「おい、もういいだろう。早くしろ」
翡翠の眼差しで催促する男に、雪は顔を顰めた。
まさか、まだ衣織との一戦を諦めていないのかと、不愉快な気持ちになる。
だが傍らの少年が、「今行く」と言ったことで小さな心火は吹き飛んだ。
説明を求めて見れば、衣織は平然と。
「ガンショップに連れて行ってもらうんだよ。前に火澄に教えてもらったとこが、潰れてさ」
「こいつと?」
つい正気を問うような口調になる。
何しろ相手は、戦闘狂の碧だ。
衣織と初めて刃を交えてから、所構わず再戦を要求するような危険人物である。
その手の誘いをかける素振りもあり、雪としては最も衣織に近づけたくない相手だった。
「場所だけ聞けばいいだろう」
「ガンショップがそんな分かりやすいところにあるわけないだろ」
「別の人間に頼め」
「時間に余裕のあるヤツは限られてる」
「俺も一緒に――」
「雪さん、本日のご予定をお忘れですか?」
間髪入れずに制止をかけられ、雪は恨めし気に神楽を睨んだ。
研究へ協力し始めてからというもの、連日何かしらのプログラムが組まれている。
すべては華真族のため、世界のためと思い不満を抱きはしなかったが、今回ばかりは煩わしく思えた。
僅かにも揺らがぬ鉄壁の微笑に、雪は諦めの吐息を零した。
「……術札を持って行け」
「これ、シンラのときの?」
一年前、シンラで別行動を取った際に持たせた術札は、雪を使用者の元に召喚できる特製品だ。
何かあれば迷わず使うよう真剣に訴えれば、衣織はおかしそうに碧を仰いだ。
「あんた、まるっきり信用ないな」
「うるせぇよ」
信用などどうして出来るだろう。
例え彼が命の恩人にして血を分けた兄弟であろうと関係ない。
関係ないのだ。
「用事を済ませたら、すぐに戻って来い」
「分かったって、あんた心配し過ぎ」
「貴方もですよ、碧中将。仕事が滞ります」
「気が向いたらな」
速やかな帰還を求める雪と神楽に、それぞれ異なる反応が返される。
その相違点が開くのはこの後。
衣織はひょいと背伸びをすると、雪の肩に手をかけその唇に音を立てて口づけた。
「行ってきます」
「あぁ、待ってる」
当たり前のように受け入れた雪に笑顔を残し、背中を向ける。
彼らの様子に、日常的な行為なのだと察することは容易だ。
周囲の研究者たちが、パッと顔を背けたのは言うまでもない。
fin.
【おまけ】
「……雪さんに釘を刺せばいいと思いましたが、どうやら間違いのようですね」
衣織を見送る術師の姿に、疲弊した声音で呟けば、傍らからくつくつと特徴的な笑い声。
「あいつらを止めるより、ラボのヤツらに免疫つけた方が早いだろ」
「かもしれませんね」
研究者たちには少々酷だが、神楽も同感だった。
あの二人に注意を繰り返しても、恐らく意味はないだろう。
日常行為を制限するなど、無理な話だ。
「それより、貴方も早く行かれては? 衣織さんを案内するのでしょう」
「あぁ、けどその前に――」
碧は徐に身を屈めると、神楽の耳元で低音を奏でた。
「行って来る」
「っ!」
瞬間的に鼓動が加速して、神楽の身はぎゅっと竦んだ。
衣織を追って扉に向かう広い背中を、射殺すほどの眼差しで睨みつける。
だが、色づいた頬では威力は半減。
碧に噛まれた耳朶を抑えていては、猶更だった。
せめてもの救いは、目撃者が一人もいなかったことだろう。
fin.
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