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呼吸をすれば肺一杯に流れ込む、咽返るような臭気。
湿った土の匂いを掻き消すほどの血臭に、脳髄が鈍く侵される。
じわりじわりと迫り来る密かやで壮絶な恐慌を感じ取った少年は、黒く濁った雫を滴らせる刃の柄を、強く握り締めた。
火を囲む傭兵たちの群れから外れたところで、軍の物資が詰められたコンテナに座るその姿は、荒涼とした世界を切なさで潤す。
華奢な身を包むマントは薄汚れ、霜が降りるほどの寒さを凌ぐ助けにはならないだろうに。
衣織は存在が消えてしまうような、透明な空気の冷たさを慰めにした。
ともすれば一挙に襲い掛かる悪夢から、己を逃がしてくれる凍えそうな気温。
僅かばかりの理性は、指先を赤くする自然によって、保たれているのだ。
兵士たちが酒を酌み交わす喧騒が、別世界の出来事に思えるほど遠く聞える。
だから、じゃくりと霜を踏みつけた音が、直接鼓膜を振るわせたことに、衣織は驚いた。
「冷えるだろ」
歪なマグに入ったホットミルクが、そっと持ち上げた視界に飛び込む。
聞き覚えのない声は心地よい低音で、不思議と警戒心が芽生えなかった。
短刀から左手だけを外し受け取りながら、顔を上げて相手を視界に捉えるが、正面に立つ男はやはり見たことがない。
手足の長い綺麗な長身を、ダブリア軍のコートに包んでいるも、どうやら誰かに譲り受けたもののようで、襟にあるはずの階級章は外されている。
緑色の短髪の下には、精悍に整った面があり、切れ長のエメラルドの瞳は鋭い光を携えていた。
「……アンタ、誰?」
自分の隣に腰かけた相手に、当然の質問。
男は薄い唇をニヤリとさせた。
拍子で覗いた犬歯を、衣織はまるで牙のようだと思った。
「一緒に戦ってる人間のことも、知らねぇのか」
「……ごめん」
ダブリア軍の傭兵になってから半年。
年若い自分を気遣って、話しかけてくれる人間は沢山いた。
だが、顔見知りを作ろうと思ったのは最初の一ヶ月程度だ。
戦のたびに誰かが死ぬ。
昨日までは笑顔で言葉を交わしていた相手は、今日はもう胸から血を流している。
五人目の顔見知りが居なくなった時点で、衣織は他の傭兵と話すことを止めた。
夜毎己を震撼させる夢に、彼らが増えることを食い止める意味もあったが、何より耐えられなかった。
再び俯いた少年は、くつくつと癖のある笑い声を聞く。
「冗談だ」
「は?」
「お前と顔を合わせたのは、初めてだって言ってんだ。そんな顔してんじゃねぇよ」
軽く額を小突かれて、衣織の大きな瞳はぱしぱしと瞬く。
むぅっと不機嫌顔になったのは、一拍の間を置いてから。
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