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この男を相手に、下級精霊が意味を成すとは思っていない。
花精霊の活動を抑制、霧散させる特異な能力に太刀打ち出来るのは、殺意を持って使役した中級以上の精霊くらいだろう。
雪の目的は碧を傷つけることではなく、足止めだった。
「雪!」
碧の間合いから抜け出した黒髪の少年――衣織は、安堵した表情で雪の元へと駆けて来た。
両手を広げて迎え受け、細い腰に腕を回す。
「おはよう」
「おはよ、起きたらいないからビビった」
「よく寝ていたからな、声をかけられなかった。昨夜、無理をさせたせいだろう」
「気を遣うくらいなら、手加減して欲しいんですけど」
「出来ると思うか?」
「ですよねー」
腕の中でため息をつかれ、雪はその秀麗な美貌を緩めて恋人の頭頂部に口づけた。
「お二人の関係も良好なようで、何よりです。ですが、場所を弁えましょうか」
漂いかけた甘い雰囲気に待ったをかけたのは、笑顔の神楽だった。
醸し出されるのは、先ほどの雪でも及ばぬ圧倒的な冷気。
「雪さん、私どもに協力すると仰いましたね。ではまず、それから改善して頂けますか」
「それ?」
「あ、ごめん。離れる離れる」
小首を傾げる術師に対し、衣織は要求するところを察したらしい。
胸を押されて、雪はむっと眉間にしわを寄せた。
距離を取ろうとする衣織を、無理やり胸に抱き込み神楽を睨む。
「わっ!」
「俺から衣織を奪うつもりか」
不満も露わに文句をぶつければ、眼鏡の奥にある神楽の双眸が怜悧に煌めいた。
ビョッとどこからともなく風が吹き、雪と神楽の間に火花が散る。
「貴方と衣織さんの関係に口出しする気は毛頭ありません。しかしそれも、私に関係のない範囲でのこと。公衆の面前であることくらいは、ご理解頂けますよね」
「それがどうした」
「苦情が出ています」
「苦情……?」
繰り返せば、神楽はこれみよがしな嘆息をついた。
ぐるりと周囲を見回す彼につられ、雪も視線を動かす。
こちらの様子を窺っていた研究者たちの無数の目が、一斉に逸らされる。
「……」
「うお! なんだよ、いきなり」
試しに、今度は衣織の頬に軽い音を立ててキスをすれば、どこからともなく「きゃっ!」と悲鳴が上がった。
「……こういうことです」
「なるほど」
「ここには研究しかして来なかった者も多くいますからね。雪さんとしても、衣織さんを注目の的にはしたくないでしょう」
雪はじたまだと暴れる少年を抱え込みながら、考えを巡らせた。
神楽の言う通り、衣織を人目に晒すのは本意ではない。
例え好奇の視線であったとしても、不特定多数の注意が恋人に集まるのは問題だ。
衣織の可愛らしい反応に誘われて、悪い虫が寄って来る可能性もある。
さて、どうしたものか。
衣織との日常的なスキンシップを取るか、己の独占欲を優先させるか。
真剣に悩んでいると、いい加減に我慢が出来なくなったのか、衣織が無理やり腕の中から逃げ出した。
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