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ひたひたと足元から這い上がる絶望感に、全身から熱が失われて行く。
信じたくない切実な思いを凌駕する、暗く底のない感情に捕らわれかけたときだった。
小刻みに痙攣している雪の両手に、あたたかな手が重なった。
次いで差し出された紅玉色の刃が、勇猛な意志を纏った切っ先を光りの渦に突き付ける。
肩に触れるぬくもりに、瞠った眼を傍らに向けた雪は、強風に踊る漆黒の髪を見た。
「諦めんのは早くない?」
「衣織……」
「俺だって半分は華真族なんだし、手伝えるかもしれないだろ。俺と母さんの力、使えよ」
呼び掛けに応じて横目で視線を合わせた少年は、事もなげに重大なことを言ってのけた。
確かに、今のままでは儀式の遂行は不可能だろう。
ただでさえ精神が疲弊する術の上、目が回るような感覚が続くせいで心身ともに消耗が著しい。
拮抗しているパワーバランスが決壊すれば、呑みこまれるのはどちらかなど明らかだ。
雪の敗北は、世界の終幕を意味している。
贖罪の儀式が始まれば、花突の周囲には結界が張られ、資格を有する者以外の侵入を阻む。
混血とは言え、衣織は結界内に入ることが許された資格者であり、天園にある花突の最深部にまで足を踏み入れることが出来た。
己一人では無理でも、短刀に封印された彼とその母・織葉の力が加われば、儀式は成功するかもしれない。
迷う必要はどこにもないと言うに、雪は苦しげに表情を歪めた。
「お前は純潔の華真族ではない。儀式に加われば、どうなるか分からないんだぞっ」
雪はこの世界を護ると決めた。
衣織と共に明日を生きるため、絶対に護り抜くと決めた。
その目的である存在に、何かがあっては意味がない。
風に流されぬように張り上げた声は、痛ましいほどに必死だった。
少年が術師を仰ぎ見る。
ぶつかった瞳に、雪は言葉を失くした。
何て瞳だろう。
鮮烈で少しの曇りもない、強く決然とした意志を宿した黒曜石に、状況も忘れて魅せられる。
「それで?あんた一人に背負わせて、俺は後ろで指くわえて見てろって?」
「っ……」
「ふざけんな、クソ術師!俺を離せないんなら、ここでも離すなよ!」
万感を込めた咆哮が、雪の竦んだ心を殴りつけた。
霧が晴れるように、恐怖が消えて行く。
あぁ、何て鮮やかなのだろう。
その燦然と煌めく魂は、何ものにも侵されることなく、どんな力にも屈しない。
揺るぎない真からの輝きは、奇跡の如く美しい。
彼の進む道を妨げられるものなど、この世のどこにも存在しないと実感する。
それならば。
重なった愛しい者の手を、雪は短刀ごと握り込んだ。
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