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「一の敵に情けをかければ、千の味方を失うと……そう教えたはずだ」
揺るぎない大地を彷彿とさせる、深い声音で紡がれたのは、遠い過去に蒼牙から授けられた上に立つ者としての鉄則。
苑麗家の力も影響して、駆け足で軍の階位を上った火澄は、いついかなる時も正しい判断を求められた。
イルビナという国を守るために、何を選び何を捨てるべきなのか。
惑うことがなかったのは、蒼牙のこの言葉が胸にあったからだ。
千の味方を救うには、一の敵を決して赦してはならない。
例えばその「一」が、火澄にとってどれほど大切な存在だったとしても。
「私の夢は変わらない。花の力をもって、この世界を紅に染めることだ。障害となるものは何であろうと、誰であろうと、排除する」
「僕……僕、は……」
胸の奥から、熱い何かが溢れ出した。
虐げられた幼少の頃が、苑麗本家に呼ばれた日が、父と共に歩いて来た時間が。
積み重ねた記憶が優しい音を立てて、次から次へと溢れだすのを止められない。
勝手に内側を埋めて行く思い出の欠片に、認めざるを得なかった。
火澄の震える手がゆっくりと持ち上がる。
「お前はなにを望む」
瞬きもせずに、ひたと見つめ合う瞳と瞳。
腰に佩いた軍刀を抜き、靴音を潜めるように決別への一歩を刻む。
色を失くした父の顔の中で、唇を濡らす恐ろしいほどに美しい赤を見つめながら、横たわる身体の脇に膝をついた。
「火澄」
蒼牙の掠れ声が、鼓膜と心を哀しく爪弾いた。
「僕が、望むのは……イルビナの繁栄」
「そうか」
「僕が望むのは、この世界の末長い存続」
「そう、か」
「僕が望むのは、父さんとは、異なる道」
「そ……っ」
とても静かに黒衣の胸へ埋めた切先は、虚しいほどに薄い身体から、いとも簡単に命を終わらせた。
一の敵から、千の味方を守ったのだ。
「僕は……父さんに同じ道を歩いて欲しかった」
じんわりと暗色を深める闇の軍服に、火澄は誰の耳にも届かぬ小さな声を落とした。
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