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「蓮璃」
もう、彼女に届くことはない。
いや。
届いていたことがあったのだろうか。
蓮璃の唇が微かに動いた。
「―――――」
「総員、かかれっ!!」
野太い声が上がった瞬間、衣織の体が宙に浮いた。
「はっ!?」
思わず頓狂な音が喉から漏れる。
違う。
浮いたのではない。
己を肩に担いだ雪が、素早く店から飛び出して、ようやく衣織は事態を把握した。
「ちょっ、下ろせっ、蓮璃がまだっ……!!」
「少し黙れ」
人間一人を抱えているとは思えない速さで、雪は先ほど通ったばかりの石畳を駆け抜ける。
「追えっ、清凛大佐の命令だ!逃がすなっ!!」
彼の肩の上で店の方を見やれば、兵士達があの小さな酒場から、赤い洪水のように溢れ出していた。
「マジで、頼むからっ……。蓮璃がいるんだ、下ろせよっ!」
「あの女は」
彼女の元へ行かなければ。
彼女の元へ戻らなければ。
叫ぶような懇願に返されたのは、落ち着いた低音だった。
「あの女は、気付いていた」
「下ろせっ、下ろせってっ!!」
「自分の罪を理解していた」
「このクソ術師!人の話聞けよっ」
どれほど口汚く罵っても、雪は衣織を下ろさない。
どんどんと「冬猫」から離れ、衣織が二年の歳月を過ごした田舎街を疾走し続ける。
やめろ、止まってくれ。
遠ざかるな。
大切な人がいるのだ。
愛する者がいるのだ。
逃げたくなどないのに。
「俺には聞こえた」
「頼むよっ……」
「お前には、聞こえなかったのか?」
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