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ゆっくりと持ち上げられた彼女の手が、驚異的な力で顔を鷲掴む。
「渡さない、碧様は……渡さない」
呪詛のように繰り返される言葉は、神楽の抱いた殺意を凌駕する憎悪を孕み、正気を失っていた男を現実に返らせた。
蘇った理性が、女の言わんとする意味を正確に理解する。
「渡さ、ない、渡さない」
「貴方、まさか最初から――」
「一欠けらも、お前には……っ!」
昂ぶった感情に彩られた最後のセリフと共に、紫倉のかさついた唇から夥しい量の血が吐き出され、神楽の白い顔を鮮やかな憎しみで穢した。
ずるり、と魂を失った肉体が傾ぎ、確かな重みを感じさせながら床に倒れる。
止めどなく溢れる血液が、女を赤い海に沈めるようだ。
「神楽っ」
明かされた思惑に呆然と立ち尽くしていた男は、己を呼ぶ上官の声にようやっと動くことが叶った。
ぶちまけられた血を袖で拭いながら、横たわる碧の元へと駆け付ける。
レイピアを突き刺したままの男は、額に汗を滲ませ荒い呼吸を繰り返していた。
なけなしの意地なのか、苦痛で顔を歪めることはなかったけれど、蒼白な肌色は隠しようもない。
いくら化け物じみた回復力を有していても、立て続けに同じ箇所を刺されて平気なはずがあろうか。
直接圧迫で傷口を円状に止血する火澄を手伝いながら、神楽は直立したまま動かない男を見上げた。
「雪?おい、しっかりしろよ!」
「あ、あぁ……」
「あぁって、全然しっかりしてねぇだろ!あんたなら治癒できんだから、呆けてんなよ」
衣織に強く肩を揺すられても、彼は碧を凝視するばかりで動けずにいる。
それも仕方のないことだ。
雪と碧の間には、何もない。
特別な絆は勿論、仲間としての意識も、恐らくは目的を共有する同志としての連帯感もなかっただろう。
世界の崩壊を防ぐという、明確な使命感を持って闘いに臨んだ雪からすれば、碧の軽口や気負いない態度は不謹慎に映ったはずだ。
衣織との一件で元から敵意を持っていたようだし、この場において最も動揺しているのは雪に間違いなかった。
何故、碧が己を庇ったのか。
それも体を張ってまで。
渦巻く疑問を全身から溢れさせる男に、神楽は嘆息を吐き出すと、こちらを見上げる翡翠の瞳を一瞥した。
「自分がどのような状態かは、貴方が一番理解しているでしょう」
「……」
痛みで返事が出来ないのか、それとも無言の抵抗なのか、判断はつかなかったが止める気はなかった。
神楽は再び雪に目を向けると、頬を打つかの如く鋭い声を出した。
「貴方の戸惑いを解消するとお約束します。ですから、今すぐ治癒術を施して下さい」
「……」
「いい加減にしろ、クソ術師」
衣織に後頭部を容赦なく叩かれた術師は、数拍の間を置いてから碧の傍らに膝をつき、煌めく右手を己のために生まれた傷へと翳した。
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