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「おいっ、おい、しっかりしろ!立てるか!?」
「う……ぐ、あ……」
「大丈夫か?とにかく――」
先輩士官の声が遠退く。
届くのは地鳴りに似た群衆の足音のみで、恐怖と焦燥で沸いていた胸がすっと冷え切った。
霞む視界に見えるのは、暴徒たちの憎しみ。
軍は裏切ったのだ。
彼らの期待を、希望を、信頼を。
国を支える民を顧みることなく、血迷った優先順位をつけ、成すべきを成さなかった。
間違っている。
これは間違っている。
今のイルビナは国として闇の方角へと進んでいるのだと、気付きながらも上から与えられた職務に従っていたのは、己だ。
報い。
気心の知れた先輩相手に不満を漏らすばかりで、何一つ行動を起こそうとしなかった罰。
甘んじて受け入れるべきなのかもしれない。
絶望の音色はもうすぐそこまで迫っている。
己の腕を取り、どうにか逃げようと足掻く先輩の手を、振りほどいた。
「逃げ、て、ください」
「しっかりしろ!」
「俺、は……」
いいから、逃げてくれ。
守るべき者たちを救わなかったこの身など、彼らの怒りに焼かれるべきなのだから。
年若い士官は地べたに座り込んだまま、担ぎあげようとする先輩士官の腕を押しのける。
もういいからと、貴方だけで逃げろと突っぱねる。
今ここで背負いし罪を裁かれる方が、後悔を抱えたまま生き延びるよりも楽なのだと思った。
「紅を纏うなら、もう少し頑張ろうよ」
そのとき、歌うような音色が怒声に揺れる脳を貫いた。
咄嗟には理解が出来ず、一時的にすべての機能が停止する。
迫り来る報復の牙も、双肩にかかる罪も、寸前まで支配していたすべてが吹き飛んだ。
最後に聞いたのは、果たしていつのことだろう。
軍に入ったとき、初任務のとき、偶然すれ違ったとき。
年若い士官が直接その言葉を与えられることは、滅多になかったけれど、鮮烈な記憶が海馬から溢れだし奈落の様相を呈した眼に光りをもたらす。
「火、澄様……」
それでも認められずにいれば、己を支える先輩士官が、抑えきれない驚愕のままに彼の名を紡いだ。
「やぁ、久しぶり。レベル3をお使い役に回すなんて、元帥も勿体ない真似をするね」
「あ……ぁ……」
「そっちの子、大丈夫?軍人ならもうちょっと根性見せて欲しいなぁ」
状況に見合わぬ余裕のある口ぶりにからかわれる。
花に誘われるが如く、閉ざしかけていた目蓋を開いた士官は、この世界で唯一絶対の緋色を目にして涙を溢れさせた。
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