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「違います。単に貴方に触れられるのが耐え難いという意味で、決して他意はありません」
「神楽……」
「都合良く解釈しないで下さい。曲解されては迷惑です」
「神楽」
「ですから黙って下さいと――」
「分かってる」
混乱を断ち切るように、きっぱりと言い切った碧に、思わず声を失った。
異常な速度で回転していた思考回路が急停止して、脳内が真っ白になる。
フリーズ。
強張った顔でただ対面を見つめれば、余裕を取り戻した男が呆れた様子で口端を緩めていた。
そこにはもう、驚きの欠片も見当たらない。
「分かってる。お前はあのときも今も、本気で俺を拒絶していた。そうだろう?」
「は、い……?」
「今のは言葉のアヤで、俺はお前の心配するような解釈はしない」
「当然、です」
言質を取ったとばかりに、追求されるのではないか。
本能的な危機感から矢継ぎ早に捲くし立て、先手を取ろうとしていた神楽は、相手の殊更淡々とした様子に、思わず呆然としてしまう。
碧との間に明確な温度差を感じずにはいられない。
宥めるような口調を受けて、ゆっくりと再稼動を始めた優秀な頭脳が、次第に平時の冷静さを取り戻す。
一人焦って狼狽えたのが馬鹿みたいだ。
神楽にすら判然としない、不明瞭な部分。
手を伸ばされはしなかったのに、過剰反応をして醜態を晒してしまった。
得意の微笑は、鉄面皮は、どこに行ったというのだろう。
他者を踊らせるための、狡猾な計算を働かせていた以前の自分に、大至急戻りたい。
未熟な自身に内心だけで舌打ちをした神楽は、見逃してもらった居心地の悪さに、ほんの僅かに柳眉を寄せる。
許してやると、あやされた気持ちになって、たった今こしらえたばかりの無表情が崩れそうだ。
「けどな、一つだけ教えてやるよ」
苦い思いを懸命に押し殺していると、対峙した男がふと口を開ける。
少しばかり黙っていて欲しいと文句を抱きながらも、横に外していた青みがかった黒い眼を、レンズの奥からそちらに向けた。
後悔することになるとは、知らなかったから。
碧は笑っていた。
どこからどう見ても、悪役にしか思えぬ嗜虐的な笑みを刻んでいた。
「傷は治っても、痕は一生残る……一生、な」
この男に限って、見逃すはずがないのだ。
神楽のミスに、付け込まないはずがないのである。
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