敗者。
SIDE:紫倉
唇を噛めば、塞がりかけていた傷が切れて、赤い味が口内に広がった。
小さな痛みを、四肢を破壊された女は意識の隙間にさえ入れることを拒んだ。
縛り付けられていた。
担ぎ込まれた病院のベッドの上に、包帯と言う名の拘束道具によって、紫倉の体は身動きが取れないほどだった。
定期的に打たれる鎮静剤も、心の奥底にある焔を沈めてはくれず、かと言って暴れだすことも叶わなければ、こうして唯一自由になる口で己を痛めつけるしか、滾る激情を殺す方法はない。
かつての輝きを失ったサファイアには、一定の場面だけが映され続け、時折ぶわりと目の前が揺れる。
あの男を庇った愛しき人。
求めて止まぬ、強き人。
下賎の者と知ってはいても、その崇高なる魂の光に魅せられて、いつしか恋焦がれていた。
彼のことならば、何でも知っていた。
好きな食べ物、好む人柄、戦闘時の癖、足音のない歩き方。
碧の抱く、秘密。
何もかも、知っていた。
常に彼の傍で、その存在を助け支えてきたのは、自分。
誰よりも近くにあり続け、誰よりも強く想い続け。
知らぬことなど、何一つ存在はしない。
彼について分からぬことなど、見つけられはしない。
己ほど碧を理解している者はいないと、絶対なる自信。
それが、崩れた瞬間だった。
何故?
初めて。
心から思った。
あの繊細な美貌の持ち主を、碧が気に入っている事実は、不快ながらも『分かって』いた。
どの種の気に入っているかも、分かっているつもりだった。
なのに。
どうして庇ったのか、今の紫倉にはちっとも分からない。
欠片ほども、理由が思い浮かばない。
彼を一番よく理解しているのは、この自分以外には存在しないのに。
その自分が、分からないことなんて、あってはならないのに。
庇われた男が、碧の頬を叩いた。
それを、甘んじて享受する碧がいた。
『分かって』いる、『当人』たちが、青い瞳に映りこんだ。
何もかも知っているはずの自分が、『部外者』だった。
自分は、碧と共に。
『当人』になることは、出来ないのだと。
言われた。
見せ付けられた。
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