瞳。
「どうして…その、名前……」
身を穿つ驚愕に押され、衣織の唇から掠れた声が零れ落ちた。
要領を得ないのはたった一人。
白銀の術師は怪訝そうな表情の中で、瞳だけは得心した光を宿し、対面の老人に言った。
「衣織だ。外から連れ帰った」
「あ……衣織…殿?」
未だ呆然としたままで、貴波は現実を呑み込むように、少年の名を唱える。
そこに含まれる冷めぬ衝撃も、どうにか過ぎ去ったのは数瞬の間の後だった。
「そう……でしたな。織葉様が斯様なお姿のままでいるはずがありませぬ」
視線を足元にやって言うのは、まるで己に言い聞かせるように見えた。
だが、衣織としてはきちんと説明してもらわなければ、納得出来るはずもない。
びりびりと震える両の手を、知らず握りこみながら、見開いた黒曜石は問うた。
「どうして、知っているんだ……?」
「衣織、どうした」
「だって、なんで……っ」
気遣わしげな雪に構わず、少年の視線はただ小柄な翁を見据えるだけ。
明らかな動揺を顔面に乗せた自分は、きっと尋常ではないだろう。
けれど仕方ない。
平静など保つことは不可能だ。
その名前をこの場で聞く意味が、この時の衣織にはちっとも分かってはいなかった。
本能的な予感を、無意識に感じ取っていたからこその、動揺だったに違いない。
落ち着きを戻した貴波は、一変して悲しみの意思を、シワの刻まれた面に浮かべた。
「それは、『織葉』は……母さんの名前だ」
震える声に、老人がゆっくりと頷くのが見えた。
「どうしてアンタが知ってるんだっ!?母さんと知り合いなのかっ?」
「織葉様からは、何もお聞きではない?」
己の無知に口を噤めば、それだけで相手は悟ったのか。
年老いた者特有の、静かな動作で社の奥に見える扉に向かって歩を進めた。
「立ち話をするわけにもいかないでしょう、こちらへ」
「教えてくれるのか?」
答えは返されることはなかったけれど、貴波の背中は優しく『是』と告げていた。
衣織は不思議な緊張感に満たされた胸中を押し殺しながら、後を追う。
雪だけが動かないと気付いたのは、幾らもせぬ内。
佇むばかりの男を振り返り、催促しようとしたのに。
真っ直ぐ注がれる金色の強さに、思わず息が止まった。
厳粛なる美貌からは、何の感情も受け取ることは出来ず、少年の心臓をぎゅっと締め付けた。
この目だ。
この目を知っている。
衣織の本質を見極めようとする、強烈な眼。
過去に数度晒された輝きに、この先に待ち構えるものに対する不安が湧き上がる。
何があるのか、まだ自分は知らないのに。
知らないから。
雪の双眸は、選定している。
衣織が、受け入れるか否かを。
同時に。
雪の双眸は、懇願していた。
衣織が、受け入れることを。
「雪様、衣織殿?」
語り手の呼ぶ声に、雪はようやく足を動かすと、すれ違い際に衣織の髪を掠めるように撫でて行った。
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