偽りの刃。
SIDE:神楽
「なぁ、ここって水道……ってうわっ!なんだよ、まだ起きてたのか」
個室の扉から出てきた男は、埃を被ったキッチンに立つ人影に、肩を跳ねさせた。
どきどきと五月蝿いのか、左胸を押さえてこちらを注視する。
神楽は特に反応を返すことなく、冷水の入ったボウルを持って、リビングを横切ろうとした。
「待てって。何?流石の少将様も、自分のために傷を負った怪我人は心配なんだ」
「……一応、ここのライフラインは生きているみたいですよ。用事があったのでしょう?私にはお構いなく」
揶揄の言葉に応戦したのは、冷ややかな音色。
取り付く島もない物言いを、相手の顔をチラとも見ずに口にする。
「自分は寝ずの看病ですか。随分、献身的でご立派ご立派」
「早く回復してもらわないと、移動出来ないでしょう。いつまでもここが、蒼牙元帥に見つからないとは限りません。今の彼は、正直邪魔なんですよ」
「っお前……」
カッと怒りに染まった情報屋を、神楽の瞳は殊更鋭く射抜いた。
碧の怪我は、予想通りの有様だった。
右の脇腹に風穴を開けられたのだから無理もない。
神楽のツテで頼ったハグレの医者にみせるまで、レイピアを引き抜かなかったおかげで出血多量の惨事は紙一重で回避出来たものの、碧の所有するレッセンブルグ郊外の隠れ家に着いてから、彼の男は一度も意識を取り戻してはいなかった。
「自分が助けられたってこと、忘れてんの?油断してたのはお前だろ。碧が庇わなきゃ、今頃生きてたかも怪しいってのに、罪悪感の一つも感じないわけ」
「彼が勝手にしたことです。碧中将が己の浅慮を後悔するのは分かりますが、私が気に病む理由など、どこにあります?」
「碧が自分から出てったのは確かでも、お前が結果的に守られたのも真実だ。お前が他人の壁で無傷なのも現実だ。それに対して、少しくらい人間的な感情を持ったらどうよ……お前、何様のつもりだ」
深夜の静寂。
捜索の手を警戒して、灯りはつけていない。
天窓から差し込む月明かりで照らされた空間を、冷酷な意思が覆って行く。
「今まで、アイツがあんな酷い傷を負ったことはない。お前のせいで、碧は今もまだ目を覚まさないって自覚しろ。あの怪我は、アイツが負うべきものじゃなかった。あの怪我はお前が―――」
「はいはいはーい、そこまでー」
場違いな声が、リビングの緊張を破壊したのは、そのときだった。
パンっと一つ手を打って現れた上官の姿に、神楽は詰めていた息を逃がすことが出来た。
「この扉一枚向こうでは、君たちが話す重傷者が眠っているのを、忘れてない?碌先生も言ってたでしょ。昏睡状態の原因は、傷じゃなくって疲労だって。隣で騒がれたら、休むに休めなくなっちゃうよ」
「大将さん……」
「申し訳ありませんでした、火澄様」
気不味そうに頬を歪める玲明の横で、軽く頭を下げる神楽に優しく微笑む。
「神楽には無理させて悪いけど、もうしばらくの間、碧に付いていてあげて。僕らじゃそうゆう繊細な仕事、上手く出来る自信ないからさ」
「……はい」
「ちょっと大将さん、何考えてっ……」
「玲明くん減点、注意した傍から五月蝿いよ。罰として僕の仕事手伝ってね」
「はっ?……ちょっ、引っ張らないで下さいよ!うわわわっ」
あの細腕のどこに、こんな力が眠っているのか。
ぐいぐいと玲明の襟首を掴んで連行する火澄を、視界の中から消える僅かな時間の間、深海の瞳はじっと見つめていた。
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