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だけど。
あの声はいけない。
あの顔はいけない。
衣織は、堪えられなかったのだ。
少年の表情に目を細くした男は、固まったままの衣織の手を、優しい手つきで外して。
「……悪い。俺が、お前に嫌な思いをさせたな」
「雪……」
柔らかな声音に、身体の強張りが解ける。
元に戻った。
そう、心底から広がる安堵の思い。
金色には、先刻まで確かにあった侮蔑も嫌悪も見当たらない。
ここにいるのは、自分のよく知る男だ。
雪は衣織の頭を丁寧に撫でると、安心させるように、もう一度笑った。
「もう、言わない。―――先に行こう、お前に会わせたい人間がいる」
「俺に?」
あぁ、と一つ頷くと、男はゆっくりと歩みを再開させた。
今度は無理に肩を抱かれることもなく、隣り合って廊下を渡り終えた。
続く離れの入り口を潜れば、細い石柱が等間隔で左右に配された部屋に出た。
設けられた明り取りから、透明な日差しがほどよく差し込んでいる。
ネイドで訪れた朽ちかけの神殿とよく似た構造。
広間の中央の床に彫られた大きな円と、そのすぐ傍に佇む人影だけが、相違点だ。
「貴波」
先導するように踏み入った雪が、その人影を呼びかけた。
声に弾かれてこちらを見たのは、深いシワを幾重にも重ねた老齢の男で、術師を見るや顔をくしゃりとさせて笑顔になる。
顔いっぱいに刻まれた線は、しかしどこか愛嬌もあって、まさに好々爺といった風貌に、少年は好感を抱いた。
「おぉ、雪様!お戻りになりましたかっ!いやぁ、お早いお早い」
ふほほっと、愉快げに笑う老人に、雪が苦笑を返す。
「まだ二つも残っている。事情があって、一度戻って来ただけだ」
「左様ですか。いやしかし、もう間もなく……んん?珍しい、どなたかお連れですか?」
雪の背後に隠れてしまった衣織は、慌てて顔を出した。
意図したことではなくとも、流石に不躾だ。
「すいません、お邪魔してますっ」
やや早口に挨拶を述べながら、バッと頭を下げた。
「なんとっ!黒髪ですとっ!?雪さま、こちらの御仁は……っ!」
「どうした?」
不自然に途切れた言葉に、雪が怪訝そうな顔をする。
それは衣織とて同様。
何故なら、貴波は顔を上げた衣織を見て、絶句したのだ。
小さな金の目を限界まで見開く様は、信じられぬものを見つけたようではないか。
一体、自分の何が対面の存在を驚愕させたのか、覚えのないこちらとしては、反応に困ってしまう。
しかし、少年の居た堪れなさなど気付かないのか、相手は衣織に視線を貼り付けたまま硬直している。
「あ、あの……」
我慢の限界に達して控えめに口を開いた衣織の耳に、老人の叫びとよく似たそれは鋭く響いた。
「織葉様っ……!!」
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