■
これは夢だろうか。
目の前の広い背中を前にして、彼はじわりじわりとその青みがかった黒目を見開いた。
粗暴で好戦的で何を考えているからまるで分からない男は、いつも神楽を苛立たせた。
気紛れな悪戯は性質が悪くて、装う平静をあっけなく打ち砕くばかりではなく、剥き出しの感情を強引に表出させる。
存在そのものが目障りで、傍に寄って来られれば警戒心と妙な緊張を強いられたから、きっと本質的に合わない相手なのだと思っていた。
いや、今現在だとて思っている。
とことんまで相反する男は、だが同時に、神楽にとって無敵の象徴でもあった。
誰の牙にも屈せず、誰の力も打ち払い、己の身一つでどんな苦境も超えて行ける暴力的な存在感、生命力。
彼を従えている火澄とて、もしかしたら適わないかもしれない。
時折、そんなことも考えた。
碧。
その名に相応しい深緑の短髪、エメラルドの眼。
猛禽類を思わせる切れ長の双眸が、輝きを失うことなどあるのか。
揺ぎ無い存在は恐怖心さえ掻き立てたのに。
「あ……あぁ…な、ぜ……なぜ、碧様っ……碧様ぁっ!!」
漏らす悲鳴と共に身体を震わせる女は、眼前の事実を視界に入れたまま、数歩ずつ後退った。
「碧っ!おい、大丈夫なのかっ!?」
駆け寄ってきた玲明が、神楽の前で棒立ちになっている男の前に回りこみ、顔を覗き込んだ。
「アホ……この程度で騒ぐな」
「いや、この程度ってお前なぁ……」
聞こえた碧の台詞は、平時と変わらぬ調子ではあったが、時折荒い呼吸が混じっているのが胸を騒がせた。
鼓動がやけに大きい。
ドンッ、ドンッと。
まるで身体の内側で小爆発が繰り返されているようだ。
玲明の手助けを断った男は、ゆっくりとこちらを振り返った。
自然、下がった視線の先には、未だ刺さったままの紫倉のレイピアがあり、息が詰まる。
「大丈夫か?油断すんな」
「……」
「おい、怪我はねぇだろな?せっかく身体張ってやったんだ、傷なんか作ってたら……聞いてんのか?神楽」
腹から柄を生やしている男が、訝しそうな声を出す。
布地に広がった染みから、ついにはボタボタと血痕が足元に落ちているのに、何を人の心配している、と怒りに似た驚愕が走った。
あんまりいつもと口調が変わらないものだから、もしや本当にこいつは化け物かとの考えが過ぎって、神楽はそぅっと相手の顔を見上げ―――後悔した。
「神楽?」
「火澄様っ、敵の足止めをお願いします!それと、貴方」
「え、俺?」
- 422 -
[*←] | [→#]
[back][bkm]