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心のひび割れなど、すっかり忘れていた。
忘れていたかった。
現実は優しくないと知るのは、それから間もなくのこと。
帰りが遅くなった夜。
店に来た若い女性客と話しているとき。
行き先を告げずに出かけた日。
蓮璃はヒステリーを起こした。
――どこに行ってたのっ、なんで勝手に居なくなるのっ!?
――今の誰?他の子と話さないでっ!
初めはただの嫉妬だと思った。
仮にも『恋人』として振舞っているのだから、嫉妬されても文句は言えない。
けれどそうではなかった。
蓮璃の束縛は日を追って激しさを増した。
それも、妙な方向へ。
「蓮璃はオレを騙すようになった」
「騙す?」
「昨日みたいに。簡単な仕事って言いながら、本当は山賊討伐だったり、危険な仕事だったり」
彼女が騙していることなど、すぐに分かった。
一番最初はどんな偽りであったか覚えていないけれど、受けた衝撃は計り知れない。
――どういうつもりだよっ!
当然、冬猫に戻るや真っ先に蓮璃に詰め寄った。
何が目的で、騙したりなどしたのか。
契約を解除したいのなら、そう言えばいい。
彼女を慕っていただけに、手酷い裏切りだった。
傷ついた心を悟られたくなくて、必死に怒りで誤魔化す衣織は、蓮璃の次の台詞に言葉を失くした。
――だって衣織は、帰ってきてくれるでしょう?
何を言われたのか、うまく飲み込めなかった。
ゆるりと唇に弧を描きながら、ひどく満足げに語られた理由は、最早手遅れなのだと知らしめる。
自分と同じ黒い瞳は、もう行き着くところまで蝕まれていて、刻まれた亀裂が彼女の心を砕いてしまったのだと悟った。
――私のために、帰ってくるでしょう?どんなことがあったって、帰ってくるでしょう?私のことを愛しているなら、戻ってくる。ねぇ。約束したよね?
たとえ衣織の身にどんなことが降りかかろうと。
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