まだ血の香りの残る戦場で、一人佇む衣織に声をかけてきた女がいた。


――ねぇ。貴方は帰って来てくれる?


涙を流しながらも薄く笑う姿からは、その時の自分にもハッキリと正気を失っているのが見て取れて、相手にするつもりなどさらさらなかった。


――綺麗な黒髪ね


それなのに、どうして。

髪に伸ばされたか細い手を、振り払うことが出来なかった。

漆黒を梳く白く小さな手は、指の先だけ真っ赤に染まり、己の体をかきむしったことは明白で、退ける気が消失した。

チラリと投げた視線に、彼女は優しく微笑んだ。


――私の大切な人も、貴方みたいな黒だった


この世で最も愛する者を失った。

世界から彩りが消え去り、ただ張り裂けてしまいそうな胸の痛みだけが身を焦がす。

焼けるような苦しみと、果てのない恐怖に身を竦めるしか出来ない。

知っている瞳だった。

自分を見つけたのかもしれない。

あの時の。

生きることも死ぬことも苦痛でならならい、あの時の自分を、闇色の虹彩に見出したのかもしれない。


――ねぇ。貴方は帰って来てくれる?


頭を撫でる白くて赤い手は、ゆっくりと衣織の頬を滑り、乾き始めた紅を拭ってくれた。


――いいよ


承諾の呟きは、無意識のうちに落ちていた。

色褪せることのない記憶。

決して忘れることのない、契約の瞬間。

脳裏に流れる回想は、降りしきる雪の上に落ちて行く。

「璃季を亡くしても、しばらくすれば蓮璃は明るさを取り戻して行った。自棄になることもなかったし、俺を見る目はいつも優しかった」
「けれど、狂気は存在した」

術師の言葉に、衣織は一瞬だけ寂しそうに目を伏せる。

小さく吐息を逃がすと、ゆっくりと頷いた。

「そう。蓮璃の狂気は静かに進行していた」

弟の代わりに衣織を迎えた蓮璃は、明るく元気で少しだけ金にがめつい女であった。

蓮璃の元に身を寄せて半年もすれば、衣織も彼女を姉のように思いはじめ、のどかで平和な田舎暮らしに慣れていた。

中央から遠く離れた街で、冬猫に入る依頼をこなし、蓮璃の傍に寄り添う平穏な日々。




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