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夜がひどく長かった。
濃紺に薄く灰がかかった天空が、少年の呼吸を静かに阻む。
ゆっくりと酸素を奪い、視界を覆い、正気を侵す。
遠くには杯を酌み交わす喧騒があると言うのに、彼の鼓膜は僅かにも震えない。
静寂が頼りない心を脆くさせた。
膝を抱えて、使われなくなったコンテナに背を預けて。
身を守る鎧のように、毛布を細い身体に巻きつける。
足元に置いた精霊石の灯りもあって、十分暖かいはずなのに、衣織の身体は凍えていた。
眠りたくない。
眠りたくない。
その先で待ち構えている絶望を、嫌というほど知っている幼子は、大きな瞳を見開いて、掴んだ短刀の柄をきつく握り締める。
朝日が昇り、血と怒号と硝煙に支配された時間が来ることを、切に願う自分は人としてどこかおかしい。
狂っている。
唇に皮肉げな笑みが刻まれた。
狂っているだなんて、今更。
数えるのも馬鹿らしい無数の命を狩り取った己が、狂っていないはずがないだろうに。
正気ならば、当の昔に命を絶っている。
多くの明日を捻り潰した罪悪に、耐えられるはずがないのだ。
そもそも、まだ自分は人であろうか。
鏡に映る通りの姿形をしていても、身内を廻るものは人のそれから外れた色をしているのでは。
『紅の戦神』。
自分がどう呼ばれているか、衣織とて知っている。
同じ傭兵ですら、こちらを見る目に畏怖の念が宿っているのだから、異名通り。
もう人に在らざる者に成り果てたか。
ただ刃を振るい、紅を貪る存在か。
けれど、同時に思うこともあった。
自分が『まとも』であると。
『正気』であると。
何せ狂った世の中。
戦乱で崩壊した常識が、蔓延している大地。
衣織が狂っているのならば、その中においては『まとも』なのだ。
狂った中で狂った己は、誰よりも『まとも』。
この身がまともな世界。
そんなものか。
そんなものなのか。
乾いた笑いが、零れる。
月も星もない。
ただ今にも雪が降り始めそうなグレーの空に、小さな悲しい悲鳴が一つの旋律を奏でた。
「……なんで生きてんだろ、俺」
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