手を伸ばす。
常にあるはずの警備兵の姿は、今は見えない。
監視カメラも、まだ壊れたまま放置されている。
この混乱だ。
ほとんど人のいない監獄まで、気を回す余裕などあるわけもなく。
誰の目も気にせず、神楽はそこにいた。
「やはりと言うか……怪我はなかったようですね」
嫌味っぽく言ったというのに、ベッドに腰掛けた男は、楽しそうに口端を吊っただけ。
余裕を持った表情は、イルビナを襲った出来事など、知らぬようにも見える。
牢獄の一室は、地震の影響で多少荒れてはいたものの、大きな調度はそのままであったし、食事も定期的に運ばれるので、生活に支障はなさそうだ。
災害時に密室にいたのだから、一体どうなってしまったのかと、少しでも心配した己を思い切り罵ってやりたい。
頭痛を堪えるように、神楽の眉間にシワが寄る。
碧は以前会ったときと、何一つ変わった様子もなく、悠然としていた。
「街の復興に追われ、人材が不足しています。貴方も外傷はないようですし、そう時間を待たずに現場復帰させられるはずです」
「そうか」
彼の待遇について話したと言うのに、随分と気のない返事だ。
どうでもいい、とでも言いたげな男の表情に、ため息が漏れる。
本当に、彼が何を考えているのか掴めない。
自分を除けば直属の上司が筆頭かと思っていたが、最近では順位が逆転していた。
「……何故、まだここに?」
「あぁ?」
怪訝そうに眉を寄せる男。
意味が分からないのか、それともワザとなのか。
翡翠の瞳が細くなる。
「脱獄だって、出来たでしょう」
穏やかならぬ言葉を、神楽ははっきりと音にした。
地震のせいで、牢獄のロックは完璧にいかれていた。
衛兵とてすぐに避難してしまったようだし、碧ならば混乱に乗じて脱出も可能だったはず。
しかし、彼は部屋に留まった。
勿論、彼が軍属としてあり続けるならば当然の選択だが、暴走するのが本能の男が、大人しく閉じ篭っていた事実は、神楽にとって不自然以外の何ものでもない。
碧は無言で立ち上がると、長い足をこちらへ向かって進める。
「逃げた方がよかったか?」
「退役に追い込む理由になりましたからね。地震に見舞われた中、地下の密室にいるのは危険過ぎます。貴方がそれに気付かぬほど愚鈍だとは、思えません」
「褒められてんのか、それ」
喉奥でくつくつと特有の笑いを零す相手は、少将の正面で立ち止まり。
自然な動きで持ち上げた手を、青みがかった黒髪に伸ばした。
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