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ゆっくり、ゆっくり。
くすんだ空から使者が光臨。
何もかもを埋め尽くそうと、舞い降りる。
対象は、鼓膜を揺さぶる波動さえも。
傍らで空気が振るえた。
「自分のためだ。我慢ならなかったのさ」
「え?」
「お前を愛する者として、彼女が愛を語ることが、ね」
優美な曲線を描く翔嘩の眉が、穏やかに自嘲するが如く下げられた。
紅を施さぬ唇が、笑みを作る。
困ったような表情も、彼女は美しい。
鈍く翳った世界に、誇りかに咲く大輪の花だ。
「今は、事務の手伝いしてるんだって?」
「あぁ、器量もいいし次の雇用試験で正式に事務官として使うつもりだ」
「そっか」
玲明から教えられた、蓮璃のこと。
狂気に堕ちた女は、翔嘩の叱責で立ち直ったのか。
北国の中枢で仕事に従事しているとは、思いもしなかった。
まだ完全ではないだろうに。
けれど、魅惑的で鮮やかな蓮璃の笑顔が、衣織の記憶に蘇る。
自分が壊したのか、それとも壊れていたのか。
分からないけれど。
いつかもう一度、会いたい人。
会わなければいけない人。
会って、言葉を交わして、目を合わせて。
もう少し時間が過ぎたら、必ず。
ふぅっと、長い息を吐き出せば白い靄が溢れ出した。
「翔嘩には、助けられっ放しだな」
今回も。
そしてあの時も。
出口の見えぬ暗い絶望の日々。
逃げ場所はなかったけれど、逃げたくもなかった。
当然の報いと理解していたから、留まらなければならぬと思い込んでいた。
どれほど重く痛い闇でも、膝を折って蹲ろうと、逃れてしまうのは更なる罪と。
それでも、苦しかった悪夢。
この国を閉じ込めたような、翔嘩のグレーに輝く双眸が、天を見上げる。
促されたのか、衣織もまた黒曜石を頭上高くに投げた。
懐かしむには悲痛過ぎる記憶だけれど、抹消も封印もしてはならない。
真正面から対峙して、背負うだけ。
「助けられたのは、お前だけじゃないさ」
傍らの声が、遠くを呼んだ。
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