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「一ヶ月前のヴェルンでの騒動が、中央に届かないわけないだろ。証拠がないだけで、イルビナのレベル3が街を一時占拠したんだから」
「……っ」
「皇帝がすぐに調査員を派遣して、そこで彼女を保護したんだ」
『保護』
彼の使った単語に、頬が強張る。
詰め寄りたい衝動は、ぎりぎりのところで堪えることに成功した。
相手が違う。
玲明は関係ない。
本当に自分が詰め寄りたいのは、己自身なのだから。
「……蓮璃の、様子は?」
押し出すように尋ねる疑問。
男の双眸に、残虐な光が瞬く。
「そりゃ酷かったな。司令部に来たばっかの頃は、お前の名前をうわ言みたいに繰り返してた。『衣織はどこ?衣織は帰って来る?』ってな」
「……」
「『愛しているもの、約束したもの、帰って来るって』……半狂乱だったからな、病院行きの話も出たくらいだ」
聞かせてやりたかった、と続けられるが、その必要はない。
彼女がどんな風に叫び声を上げたのか、衣織は正確にイメージ出来たのだ。
壊れた女は、血と闇の響きを持って自分を求めたはず。
あの時、何がなんでも雪の拘束から逃れて、蓮璃のもとへ戻っていれば、こうはならなかったのか。
いいや、恐らく変化はない。
ヴェルンを出る以前から、蓮璃は行き着くところまで狂っていた。
放置したのも、見過ごしたのも、手を離したのもすべて衣織。
苦渋に満ちた少年の姿をしばし静観していた玲明は、しかし大きく息を吐き出した。
「別に、お前を責めてんじゃない。つーか、俺には責める理由もなけりゃ、権利もないしな」
「でも、俺は―――」
「今は持ち直した」
「…………は?」
矢継ぎ早に言われて、衣織の思考回路がストップする。
今、この男は何と言った。
持ち直した?
散々、蓮璃の有様を語った口で、『持ち直した』?
「はい?」
「入院させる話が浮上したときに、皇帝が面会しに行ったんだよ」
「し、翔嘩が?」
もう何がなんだかさっぱり分からない。
混乱しつつある頭の中。
なんでそこで皇帝が出てくるのだ。
ことの次第がさっぱり理解出来ない。
「話がしたい、とか言って蓮璃さんのとこ行って。泣き喚く彼女を目にした途端……」
「と、途端?」
「平手打ちの刑」
「はっっ!?」
平手打ち?
平手打ちって、平手打ち?
あの、パーで頬を叩く、女性同士の喧嘩や痴情の縺れで登場する、人類最速の攻撃『平手打ち』だと。
意味を呑み込んだ瞬間、衣織は目を引ん剥いた。
「何やってんだよ、あの皇帝っっ!!」
「しかも一発じゃねぇの。グーじゃないだけまだよかったが、何度となくバシバシッとやってたな」
信じられない。
弱っている女性に、暴力を振るう皇帝がどこの世界に居るというのだ。
呆れと驚愕がない混ぜになった衣織の顔を見て、玲明は同意を示すように頷いた。
「な?あり得ないよな。けどさ、そこからが我らが皇帝って感じなんだよ」
「殴っといて!?」
「だって『依存を愛で誤魔化すなっ、愚か者!』……って言ったんだぞ」
にんまりと愉快そうに笑った男に、衣織は言葉を失くさずにはいられなかった。
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