忘れてなどいない。




ノブにかけた手に、不自然な力が入る。

聞きなれた地名が鼓膜を揺らす。

衣織はゆっくりと情報屋を振り返った。

「隠居してからのことは、調べてないって言ってなかったっけ?」
「詳しくは調べてないさ」

咎める視線を肩を竦めて受け流す玲明は、しかし思いの外真剣な顔で。

「蓮璃さんには、会っていかなくていいのか」

はっきりと出された名前に、華奢な肩が動揺した。

大きな瞳は、視線をぎこちなく床へと落としてしまう。

癖のあるブルネットが、少年の脳裏を掠めた。

忘れたわけじゃない。

忘れられるわけがない。

雪と二人、世界を廻り旅をしていても、離れることのなかった出来事。

まだ一ヶ月。

彼女に裏切られ、そして裏切ってから、まだ一ヶ月しか経っていないのだ。

今、蓮璃がどこでどう過ごしているのか、衣織は知らない。

何を思い何を支えに日々を送っているのか、衣織には分からない。

けれど、何事もなかったように顔を合わせることも、糾弾の言葉を投げつけることも、ましてや謝罪を紡ぐことだなんて、とてもじゃないが無理だ。

心を整理するには、流れた時間は短すぎる。

最も恐ろしいのは、彼女の黒い瞳がどの感情を映すのか。

憎悪か、絶望か、狂気か。

それならいい。

それならいい。

何の思いも見当たらぬ硝子玉と対面するのは、きっと耐えられない。

粉々に砕け散った心を眼前に差し出されたら、自分はどうすればいい。

己の過ちを突きつけられたら、どうなる。

知らず俯いていた少年の頭に、思いがけない言葉が追い討ちを掛けたのは、次のとき。

「蓮璃さん、今、ノワイトリアにいるぞ」
「え?」

ばっと目を上げて発言者を注視する。

自分を謀ろうとする気配もない男に、真実だと悟った。

「どういうことだよっ」

上擦った声ながらも、口からは言及の音が溢れ出した。

「なん、なんで蓮璃がここに……どうしてっ!?」

見っともなくも震えてしまう手をきつく握り締める。

心臓がどくどくと走り出すが、果たして理由はなんだろう。

恐怖?焦燥?罪悪感?

単なる動揺ではないはずだ。

対照的に落ち着き払った男は、凪いだ琥珀で事実だけを述べる。




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