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「何をしているっ!敵は一匹、怯むなっ。撃てっっ!!」
上官の号令に従おうとはするが、上手く動かぬ体。
凍える思いに銃を手から零す者さえいる。
「くそっ!貴様らそれでもダブリアの兵かっ!!」
すっかり主導権を奪われた現場を一喝した武官は、残念ながら己に迫る危機に気付けなかったようだ。
『一匹の敵』が深い闇色の眼を煌かせる。
この場の指揮権が誰にあるかは、今ので知れた。
軽やかに着地した黒髪は、そのまま予備動作なしに走り出すと、部下に激を飛ばそうと口を開いた男の懐に飛び込んだ。
構えたサーベルはお飾りなのか。
柄を握る手に膝蹴りを当て刃を奪い、シルバーの口を相手の顎先に突きつける。
「どうした?怯んだら駄目なんだろ」
「……っ!」
すべてのものが動きを停止させた。
今しがたの騒々しさが嘘のような空間。
ほんの小さな出来事で、破裂してしまうような息苦しさ。
支配しているのは、小さな銃を持つ一人の少年。
「こんな……ことを、して」
「ん?」
「タダで済むと、思って、いるのか……?」
命を握られた状態で、よく言ったと衣織は内心で感嘆した。
負け惜しみにしか聞こえないが、自分の戦闘能力の片鱗を見ただけで、身を竦ませる周りの連中よりは随分ましだ。
けれど、寄越された台詞は大分的外れ。
誰も動かぬことを確認してから、衣織はそっとリボルバーを下ろした。
「あのさ、俺別に喧嘩しに来たわけじゃないんだよね。そっちが勝手に誤解しただけだし」
呆れたような様子の少年に、男を始め場にいる全員が首を傾げた。
これだけのことを仕出かして、何を今更。
さっぱり分からない。
流れ出る戸惑いの空気を読み取り、衣織は苦笑する。
自分とてこんな騒動を起こす気はなかったのだ。
少年は銃のグリップ底を、眼前の男に向けた。
途端、相手の瞳が極限まで見開かれる。
受付で果たせなかったこと。
「よく見ろよ。……俺、今あんまり余裕ないから、手元狂うかもよ?」
「あ……ま、さか……」
銀色の底に刻まれた、一つの証。
未だ目にした人間はいないながらも、軍に所属する者ならば誰もが知っている。
カサバをモチーフにした刻印は。
「特別、護衛官……」
ほとんど囁くように落とされた武官の言葉に、衣織は満足そうに笑った。
「皇帝に伝えろよ、アンタの家族が来たってな」
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