帰還。
触れ合った名残が、肌の上から消えていく。
水分が蒸発するかのように、刻一刻とまるで存在しなかったことのように。
跡形もなく消されていく。
胸の左を抉るほどの痛みを伴いながら、着替えたブルゾンの下。
Tシャツに隠された皮膚。
表層的なその下からも、あの男の気配は失われて行くのだろう。
己の弱さが招いた結果であっても、四肢に針金を仕込んだが如く、筋肉が硬直していた。
常に側にあり続けたものが、今は何処にも見当たらない空虚感。
喪失感。
絶望と憤り。
それでも衣織の華奢な身体は、もう危なげな様子もない。
成すべきことのみを見つめた黒曜石は、揺るがず強い輝きに満ちている。
目的だけが彼の視界に映し出され、他の一切に目を向けず。
焦燥に駆られることのみ注意して、極力冷静な思考を展開させればそれでいい。
術師と離れて、三日が経った。
ネイドのときに比べれば、ワケはない時間。
けれどあの時とは異なる関係を持ってしまった少年には、苦痛な時間の距離。
焦ってはことを仕損じる。
走ったところで転ぶだけ。
次に護ることが出来なければ、すべてが終わってしまうのだから。
口を開けたトランクからは、亜麻色をした長い鬘と青いワンピース。
ファーのついたコートは底に沈めてある。
イルビナ軍のなんと手回しのいいことか、予想はしていたが碧に与えられた部屋を出る頃には、すっかり自分はお尋ね者で、ぎらついた目で街を闊歩する赤い人間の中を無防備に歩くことは不可能だった。
太陽が頂点に昇る前には、自分の道を決めていた衣織は、素早く変装道具を購入すると美少女を装って堂々と港に赴いた。
部屋が空いていて助かった。
恐らくは厳戒態勢の布かれているであろうイルビナに、居座り続ける真似などとても出来ない。
旅客船はのんびりと航路を進み、雪深い故郷に彼を運んでいた。
約一月ぶりだろうか。
そう長い間でもなかったが、中身は凄まじい出来事が詰め込まれている。
旅立ったときの自分とは、きっと何処かしら変わっているはずだ。
衣織は予備の弾丸を装填した愛銃を、ブルゾンの内側にあるホルダーに滑り込ませ、腰を落としていたベッドから立ち上がると、旅行鞄の蓋を下ろした。
特別客室の丸窓から見える景色は、綿帽子を被った銀世界。
はらはらと雪が舞い踊る。
己を形作った大地に、船が停まった。
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