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背中に感じる男の逞しい体躯は温かいのに、背筋を伝ったのはゾッとするほどの寒気だ。
いつから、そこにいたのか。
どこから、見られていたのか。
己の思考に意識を飛ばしていたからと言って、まさか背後に迫る存在に気付けなかったなんて。
ガンガンと鳴り響く甲高い警鐘が、神楽の頭を埋め尽くす。
「あ?どうした?」
けれど、こちらの状態に訝しげな声を出す男に、神楽は自分の杞憂だったかと全身から力を抜いた。
強い力で口を覆う手の甲を抓り上げれば、くつくつと言う笑い声と共に無骨なそれが外される。
大きな溜め息を吐き出しつつ振り返った先には、案の定楽しそうに口端を釣った男は、翡翠の眼でこちらを見下ろしていた。
「金輪際、私に近付かないで下さいと言ったのを、覚えていらっしゃいますか?」
「さぁな。仮に言われたとして、俺がそれを守る謂れはねぇよ」
「狂犬のくせにトリ頭ですか。貴方が向かう先は本部ではなく、病院の間違いですよ」
にっこりと極上の笑顔で放った嫌味を受け、碧は忌々しげに小さく舌を打った。
間の悪い時に現れるものだから警戒してしまったが、この様子では彼は何も知らないのだろう。
ほっと胸を撫で下ろした青年は、荒れていた内部がすっかり凪いだことを自覚して、僅かに眉を寄せた。
何かが引っかかる。
神楽は小さく首を傾げるも、今は考えている場合でもないかと中断させる。
薬を取るため部屋を出てから随分時間が経っているはずだ。
そろそろ怪しまれるだろう。
碧を視界から追い出しすっと息を吸ってから、復活した能面で扉に向き直り扉をノックした。
『はーい』
「翔庵少将です」
『どーぞ』
常と変わらぬ火澄の応答。
ドアノブに手をかけ入室しようとした青年の肩を、あの手が引き止める。
「気安く触らないでいただけますか?」
きつく斜め上に視線を流した神楽だったが、ぶつかった中将の表情に僅かに目を見張る。
「お前……なんかあったか?顔色悪ぃぞ」
「なに……」
すっと額に触れた碧の指先が、優しい動きで儚げな美貌に浮かんだ冷や汗を拭う。
言われるまで気付けなかった己と、男の予想外の動きにレンズの内側で瞬き。
いつも非常識なことばかりする彼が、まさかこんな。
けれどそんな感心は、碧が拭い取った指を舐めるまでだった。
「貴方って人は……」
歪められたこちらの表情に、碧の笑みが深くなった。
最低だ。
品がないにも程がある。
いや、無いのは常識と良心と節操か。
欠陥だらけの緑頭を更に強く睨み付けると、神楽は冷ややかな声音で投げつけた。
「もう少し、頭を使った方がいいですよ」
それは思いの外真剣さを有していて。
気付けばいい。
早く貴方も気付くといい。
この紅の国が向かわんとする終着点に、早く。
神楽は微笑を乗せた顔で、今度こそ扉を開けた。
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