水面下の野望。




ゴホゴホと咳きこむ音に、彼はノックもせずに扉を開けた。

街から戻って真っ先に訪れたために、赤を纏ってはいない。

寝台から身を起こして細い体を折る姿に、イルビナ軍大将は顔を真っ青にさせて駆け寄った。

「大丈夫ですかっ!?」
「っ……火澄か」

薄い背を撫で擦ってやりながら問いかけると、少しずつ呼吸を取り戻し出した蒼牙が、衰えの知らぬ眼光を向けてきた。

この射抜くような爬虫類を思わせる瞳だけが、初めて出会ったときから唯一変わらぬもの。

老いた体躯もすっかり白に染まった髪も、火澄の記憶にある元帥とはまるでかけ離れていはしたが、自分にとって無二の存在であると今でも断言出来る。

僅かの寂寥感と重苦しい感情に浸りながら背を擦っていた男は、枯れ枝のような手に見えた赤に、言葉を失った。

緋色の眼がカッと見開かれて、虹彩が揺れる。

「元帥…まさか……」
「…喉の奥が、切れただけだ」
「そんなわけないでしょうっ、義父さんっ!!」

感情を前面に押し出した怒声に、蒼牙はふっと自嘲気味に微笑んだ。

皮肉とはこのことか。

常にふわふわと掴み所のない火澄の性格は、他人を不用意に内側に迎えぬため、自分が彼に作らせたもの。

簡単に仮面を外すなと言い聞かせてはきたが。

己が彼を動揺させてしまうことになるなど、考えもしなかった。

微苦笑を零す老人を鎮痛な面持ちで見つめる火澄は、明かされる真実を消化するのに必死で、自分が取り乱している自覚があるのかも怪しい。

「神楽は秘密を守ったか……」
「……最近ですか?」

糾弾の意思を緋色に乗せる息子に、一つ頷く。

過去の戦乱で負った傷が、年齢を重ねるごとに負担になり、とうとう思うままに動けなくなった。

床に着くことが増えればすぐさま体力は落ち、結果この体たらく。

歳月のもたらす現実を、イルビナ最高指導者はごく淡々と受け入れていた。

「今、神楽に薬を用意させている」
「そう…ですか」

苦味走った火澄の表情を横目で捕らえる瞳は、何とも言えぬ色。

蒼牙は密かに息を吐き出した。

「そんなことより……アレの開発はどうなっている?」

一瞬にして元帥の顔に戻った義父に、ようやく火澄は己の有様に気が付いた。

いくら身内の前だからと言って、許されることではない。

こと、自分と義父の場合では。

心を乱しすぎた自身に舌打ちをしてしまいたかったが、蒼牙の双眸の鋭さに拳を握り締めるだけに留めた。

姿勢を正し『イルビナ軍大将』の面を付ける。

「現段階ではまだエネルギーの安定に不安が残り、いつ暴発するかも知れぬ状態です。飛空挺への影響も考慮して改良が進められています」
「急げ……時間がない」

それは、どういう意味ですか。

尋ねるのはあまりにも愚かだと、火澄は知っていた。

吐血した姿を目の当たりにすることがなかった以前より、薄々は勘付いていた。

血の繋がりがないとしても、こうして毎日顔を突き合わせていれば嫌でも分かる。

日に日に細く、頼りなくなる元帥の背中。

咳き込む音。

いくら瞳の輝きが翳らないとしても、別離の時が迫っているのだと、悟らない方が難しい。

再び崩れてしまいそうな息子の表情をしばし見つめてから、ふっと窓の外に視線を逃がした蒼牙が口を開く。

「……もう少しだ。花と飛空挺が完成すれば……軍の狗になった甲斐があったというもの」

悠久の彼方を見つめるかのような眼差しは、けれど少しも憂いを知らず。

己の生涯を懸けてまで手にしようとする、未来への野心に満ちていた。

「まずはネイドからですね。内戦の気運が削がれぬうちに、ことを進めなくては」
「次いでシンラ……。ダブリアの城に紅を翻す想いは、どんなものだろうな」




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