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餓死させるわけにはいかない、と嘯いてみせると明るく笑ってくれた。
「そっか。なら急いだ方がいいよ。引き止めたら恨まれちゃう」
術師の性格を思えば、あながち外れてもいない台詞に、今度は衣織が吹き出した。
その姿に緋色の眼が眇められる。
「…大切な人?」
「え?」
「君が待たせてる人は、衣織くんにとって大切な人?」
他意はないだろうに、思いがけず真剣な男の態度に衣織は僅かに瞠目した。
笑みを消せばより冴える彼の美貌。
作り上げられた華やかなそれは、少し恐いほどで。
しかし真正面から双眸を受け止めると、少年はしっかりと頷いた。
「大切なヤツだよ」
他に答えなどなかった。
誰に聞かれても、返事は変わらない。
強い意志を携えた黒曜石はどこまでも決然としていて、火澄は優しく微笑んだ。
「そう」
甘い笑顔は、けれどどこか寂寥感を漂わせる。
少年は小さな違和感を敏感に感じ取ったが、正体は分からない。
ただ一つ。
「アンタにも……」
「え?」
「アンタにも、大切なヤツっている?」
何故か聞きたくなった。
聞きいておくべきだと思った。
彼は一瞬だけ驚いたように赤い瞳を丸くすると、それから衣織とよく似た色を二の眼に乗せる。
「…いるよ」
「火澄」
「きっと……誰よりも大切な人」
囁きは雑踏に紛れることなく少年の鼓膜を震わせ、燃え盛るような緋色と共に心に根を下ろしたのだった。
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