不穏なる誘い。
SIDE:雪
ポタリポタリと床に水滴を落としつつバスルームから出てきた男は、部屋の様子に動きを止めた。
脳内を素手にかき混ぜられるような不快感も、込み上げる吐き気も一挙に吹き飛ぶ。
衣織が出て行ってからほとんど気絶するように眠りについた雪が、滲んだ寝汗を流すためにシャワーに入ったのはほんの数分前。
戻ってくるまでの短時間。
その間に、宿屋の一室は明らかに変化していた。
家具の配置が変わっているだとか、荷物が荒らされているだとか。
その程度だったならば、どんなに良かったか。
雪は全身の筋肉を強張らせた。
「失礼。入浴中のようでしたので、勝手に待たせてもらいました」
ソファに座した青年は、白磁のカップをテーブル上のソーサーに流れるような所作で戻した。
レンズの向こう側で青みがかった黒眼が、すっと細くなる。
「お久しぶりです、雪さん」
ふわりと軽やかに笑った来訪者は、熱砂の国とは違い赤の軍服を纏っていた。
儚げな美貌に浮かんだ微笑に、対する術師の面は険悪なものへと変化した。
突き刺さるような眼差しに見える警戒と疑念。
「この前はきちんとご挨拶も出来ずに申し訳ありません。イルビナ軍少将、か……」
「何の用だ」
素知らぬふりで挨拶をする神楽の言葉を意図的に遮るも、彼は気分を害すどころか楽しそうに笑みを深くしただけで。
それからからかうような音色で言った。
「気付いていないはずがないでしょう?」
「……」
「シンラで馬鹿な狂犬が、どんな交渉をしたか知りませんが、目的くらいは聞いているはずです」
東の国。
一瞬にして蘇る言葉。
『俺らに手を貸すか…死ぬか』
室内の空気が凍て付いた。
「消えろ」
張り詰めた緊張の中、絶対零度の殺気が充満して行く。
金色の眼に冷めた色を乗せ、紡がれる拒絶。
肩をすくめるだけでそれらを流すと、神楽は何気なくソファから立ち上がり、窓辺へと足を向けた。
硝子の向こうには、人々が行きかう賑々しい様子が広がっている。
人口の多いイルビナの首都は、大通りから外れているとしても、この時分人波が途絶えることはないのだ。
区画整理された世界に目をやりながら、青年は穏やかな調子で話しかけた。
「レッセンブルグは如何ですか?なかなか美しい街でしょう?」
「…最悪だ」
「酷評をどうも。ですが宿に篭っているだけでは、分からないことは沢山ありますよ」
「知る必要はない」
「そうでしょうか?」
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