冬猫。
北国ダブリアの首都ノワイトリアから、鉄道を使い、馬車を乗り継いでようやくたどり着くのは、恐山として有名なソグディス山を背後に従えた小さな街、ヴェルン。
これといった観光スポットも無く、中央から人の訪れることも少ないひっそりとした田舎町は、果敢にもソグディス山に挑もうと言う冒険者が時たまやって来るくらいで、のどかな静けさに包まれていた。
そんな平和を台無しにするような怒号が一つ。
「蓮璃っ!」
店の扉を壊そうかと言う勢いで、衣織は店内に飛び込んだ。
街の北門をくぐり雪かきのされた石畳を進んで、ちょっとした路地に入ると現れるのが、この店。
縁が凍った黒の看板は猫の形で、『冬猫』と白い文字で書かれている。
カウンターの向こうにいる女は、衣織の声に顔を上げた。
「あら、お帰りなさい。衣織」
「お帰りなさい……じゃねぇよっ。俺に何か言うことはねぇか?あぁ?」
つかつかと彼女に詰め寄り物騒な声を出すも、この店の店主である蓮璃はにっこりと微笑んだ。
「愛してるわ」
「ちげぇっ!」
きっぱりと言い切る彼女は、少し癖のある衣織と同じ艶やかな黒髪を一つに束ねた美女だ。
真っ白な貌の上で、丁寧に引かれた魅惑的なルージュの紅が、華やぎを添えている。
その完璧な笑顔にも、少年は怒りを納めることはしなかった。
「お前が俺に言った依頼、もう一度復唱してみ?んで、自分の胸に手ぇ当ててよっく自問自答しろ」
「なんのことかしら?」
「蓮璃ぃ!!」
大衆酒場『冬猫』には、純粋に酒を楽しみに来る人間と、そうで無い人間がやって来る。
後者がここへ赴く理由は、『冬猫』が様々な依頼の斡旋所であるからだ。
いつも簡単な依頼を紹介してもらい、その報酬で日々食いつないでいる衣織だったが、目の前の女主人が信用ならないことを知っていた。
「カサバ採取の依頼とか言って、本当は山賊の討伐依頼じゃねぇかよっ」
「ちゃんと倒した?」
「……良心をどこに捨ててきた。今すぐ拾って来い。なけりゃどっかから買って来いっ!」
「成功報酬ならきちんと払うから、怒らないでよ」
ヴェルンよりも栄え、中央の権威がすぐには及ばないような土地で略奪行為をしていた山賊たちは、人目の無いソグディス山を隠れ家としていたのだろう。
危険ではあるが、通報の心配がいらないという点では最良の選択だ。
何を言っても通じない蓮璃に、衣織はため息を吐いた。
彼女に勝てるはずがない。
幾分疲れた様子で、扉の前で立ち止まっている『廻る者』を手招きした。
「あのさ。お前の性格分かってるから、今更くどく言う気はねぇけど。でも、今回ばかりはマジでヤバかったんだって。コイツが居なきゃ、俺帰って来れなかったかもしんないんだよ」
迷子になって、とはあえて言わない。
否、言えない。
衣織の真横に立った長身の男に、蓮璃は僅かに目を見張った。
瞳の奥に灯る鋭い光で、白銀の男を凝視する。
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