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男を包んでいた炎が、一瞬にして弾け飛んだのだ。
姿を見せた彼には火傷を負った様子もない。
長い軍服のジャケットの裾が、僅かに焦げ付いている程度だ。
雪の瞳が不愉快そう眇められる。
「何をした?」
予想だにしなかった事態に、声は絶対零度の冷たさに満ちていた。
しかし、身を凍らすような術師の恫喝にも、男はニヤリと犬歯を覗かせるだけ。
答える気のない姿に、珍しく雪が舌を打った。
次の攻撃を仕掛けようと、仄かな光を帯びた右手を翻そうとした白銀の男は、しかし優雅とも取れる動作で地を蹴り後退した。
直後、鼻先を掠めた一太刀は金髪の麗人から繰り出されたレイピアだ。
「碧様、ご無事ですかっ!?」
「誰に言ってんだ、当然だろ」
現れたのは、上官に反してきっちりと軍服を着こなす女性士官。
紫倉=清凛大佐だ。
彼女は果敢に剣を振るいながら、背後にいる碧にチラリと視線を送った。
神殿から走り出ていった碧を追い、ようやく視界に納めたと思ったら、炎に呑まれていたのだ。
いくら彼の実力を信じているからと言っても、心臓に悪い情景である。
無事な姿を確認し紫倉がほっと緊張を解いた、その僅かな隙を見す見す逃す術師ではない。
レイピアを持つ彼女の手首を捉えると、掌底を鳩尾に叩き込んだ。
風のエレメントを乗せた一撃は重く、紫倉の身体が呆気なく崩折れる。
「っは……っ」
詰まった呼吸の変わりに、奇妙な叫びがルージュを引いた艶かしい唇から漏れた。
何とか膝を着くという無様な真似は回避出来たが、額に浮かぶ脂汗からダメージの甚大さは容易に知れる。
内臓系を傷つける凶悪な攻撃に、品の良い顔が歪んだ。
「どこを見ている」
落とされた冷徹な一言に、紫倉は羞恥と憤怒がない交ぜになった視線を上げた。
「貴様っ!!」
「止まれ、紫倉っ」
柄を握り直し再び挑もうとした女は、しかし碧の制止にピタリと動きを止めた。
悔しそうに真っ赤な唇を噛み締めるも、大人しくレイピアを鞘に収める。
上官に逆らうことが、どうして出来ようか。
怪訝な表情を作った衣織と雪に、碧は楽しそうに微笑んだ。
「俺は平和主義者なんだよ」
「信憑性皆無だけど?」
「ほっとけ。と、まぁそんなことはどうでもいい。おい、術師っ」
衣織のツッコミをあっさりと流すと、碧は術師に顔を向ける。
乱暴な呼びかけに、雪は眉を顰めた。
完璧な美貌には、会話をすることへの不満がありありと浮かんでいる。
それを気にも留めず男は話を続けた。
「お前の選択でこの先の展開は変わる。よく考えろよ?」
「さっさと言え」
もったいぶった言い方に、術師の面はどんどん険しくなっていく。
衣織を蹴り飛ばした時点で、この男に対する認識は『排除すべき者』に決定しているのだ。
だが、鋭い眼の雪に向かって、碧は意味深な笑みを浮かべた。
「俺らに手を貸すか、死ぬか……選べ」
二者択一を提示しながら。
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