わからない。
「やめろ」
「大丈夫だって。上手くやるからさ」
不機嫌な顔で言う男に、衣織はケラケラと笑ってみせた。
衣織が香煉の身代わりになるという案が決定するや、蘇次は不安そうな様子を見せながらも、すぐさま王の元へ使いを送った。
城からの返答もまた素早く、婚姻式は明日となっている。
香煉はあっさりと了承した衣織を少々訝しげに眺めていたが、それでもどんな醜態を晒すのかと内心ほくそ笑んでいるのが透けて見えた。
「仮とは言え、男の元へ嫁ぐんだぞ」
「わかってるって」
「逃走に失敗したらどうする」
「俺がそんなヘマするわけないだろ。アンタ何か変だぞ?」
あまりに食い下がる雪に、少年は首を傾げた。
場所は衣織に与えられた客間。
華真族である雪には専用の別室があるようだったが、彼が自分の部屋に戻る気配はなかった。
ベッドに寝転がりながら胡乱気に視線を投げると、ソファに腰かけた不服顔が目に入る。
「変じゃない」
「ぜってぇ変だって。俺が潜り込んでる隙に、アンタは花突とかってとこに行けばいいじゃん。何も問題ないだろ?」
「……ある」
「は?何だよ?」
ムスッと秀麗な面を歪ませる男の美貌は、しかし少しも衰えない。
白銀の髪を軽く揺らしながら、静かな動作で立ち上がる。
コツリと響いた足音に、どうしてだか背筋がゾワリと粟立った。
「衣織」
ギシリっとベッドの軋む音にぎょっと目を剥いた時には、己の顔の両脇に雪の手が。
まるで覆い被さるような体勢で、金色の輝きに射抜かれる。
「な、んだよっ」
足元から這上がる奇妙な感覚に首を竦ませながら吐き出せば、少年の声は不自然に上擦った。
けれど、術師は視線の拘束を解放することもなく、水色のシーツに投げ出された衣織の左手を取った。
「雪、やめっ……」
「分かるか?」
頼りない抗いをものともせず、導かれた先は彼の胸。
自分の掌に伝わる雪の鼓動に、ビクリッと体が反応する。
トクン、トクンと訴える命の響き。
「嫌だ」
何が?
そう問い返したくても、声は出ない。
身内に流れる込む雪の言葉と心音に、己の声は奪われたかのようだ。
「お前が他の男の元へ行くのが、嫌だ」
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