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ポスポスっと優しく撫でられて、衣織は驚いて彼を振り向いた。
「大丈夫か?」
気遣いの眼が、こちらの瞳を覗きこむ。
衣織が何を考えていたのか、雪は知らない。
理屈の通らぬ醜い思いに占拠されかけていたとは、知らないのだ。
大きな掌に、冷えきった心が落ち着きを取り戻す。
「ありがと」
落ち着け。
きちんと状況を見ろ。
香煉が嫁いでくれると言うのなら、願ってもいない申し出なのだ。
ほっと安堵の息を吐くも、少年は自分に注がれる鋭利な視線に気が付いた。
青の長い髪を持つ女は、憎悪とも言える激情を眼に乗せる。
それに対抗するように、衣織も目を眇めた。
当人同士にしか分からぬギリギリの境界で、火花が散る。
無言の闘争から離脱したのは、香煉が先だった。
「そう、ですね。父上が止める理由もよく分かっております。楼蘭の血が薄まり行くのは、回避すべきです。では、こうしてはどうでしょう」
「あ?」
けれど、彼女の瞳に宿る攻撃の意思は少しも薄れていない。
次に何が来るのかと衣織が身構えたとき。
「衣織さん、と仰いましたか。貴方が私の代わりを務めてはどうでしょう?」
「「は?」」
傍目からは極上。
衣織からは悪意に満ちたように映る笑顔を浮かべ放った台詞に、二人の声が重なった。
「何言って……」
「簡単なことです。貴方が私に成りすまし、王家に嫁ぐのです。幸い私の姿を王家は知りませんから、上手く変装できれば問題などないでしょう?線も細いですし、身長も然程高くない衣織さんなら大丈夫ですよ」
「……で、雪が花突に侵入し終えたら、俺はどうすりゃいいんだよ。偽者、しかも男を寄越したってバレたら、あんたらだってヤバイんだぞ」
小さなコンプレックスを引っかけて行くセリフを、どうにか無視して先を促すも、彼女の言葉は淀みなかった。
「それなら簡単です。貴方が独断で行ったことにすればいい。そうですね、こんな筋書きはいかがでしょうか?貴方は国政を疎かにする国王に犯意を抱き暗殺を企て、嫁ごうとする私を攫ってすり替わった賊。警備の厳重さに暗殺実行は不可能と判断し逃走。楼蘭は、そんな危険がある城に私を嫁がせるわけにはいかないと、今度は堂々と縁談をお断りすることも出来ます」
すらすらと語られる散々な内容に、衣織は一人得心してしまった。
あぁ、なるほど。
喧嘩を売られているのだな、と。
すべての罪を引っ被り、シンラ王族を敵に回せと彼女は言っている。
これまでの雪の旅程を鑑みると、目的を果たせばすぐにでも他国へ移るだろう。
そうなれば他国との国交が薄いシンラが、追手を出すことは叶わない。
この地からの脱出さえ成功すれば、何ら問題はないと分かっているが、国に牙を向けるなど了承できるはずがあろうか。
だが不敵に笑う香煉に、衣織の何かがぶち切れた。
「いいよ」
「おい、衣織っ」
珍しく慌てる術師を制し、ニヤリと口角を吊り上げる。
売られた喧嘩は高価買取返品不可。
自分の愚かさを呪わせてやる。
艶然と微笑む少年に、負ける要素は見当たらなかった。
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