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北の国ダブリアには、決して足を踏み入れてはならない場所がある。
一つはダブリア軍総司令部。
一つは内乱の爪痕深いダビデ地方。
そして最後が、今彼のいるソグディス山であった。
春の訪れないこの山は、一年中白い悪魔に取り付かれ、一度方角を見失えば星も見えない陰鬱な空の下、雪に埋もれて息絶えるしかない。
山の麓に小さな街があるのだが、住民たちでさえソグディス山にはよほどの時しか入ろうとしなかった。
彼らは知っているのだ。
純白の有する凶暴を。
では、一体どうして衣織はここに居るのか?
件の麓の街に住う彼だが、今は奉納の時期でもないので、入るつもりなど更々なかった。
もっと言うならば、自殺志願者でもなければ、誰が好き好んでやって来るか!と言ったところ。
今となっては蓮璃の艶やかな笑みが憎らしい。
――カサバの花をお願い出来る?
艶やかなブルネットの女は、そう衣織に言ったのだ。
いつものように、何か手頃な依頼は無いか?と聞いた返事はそれで、報酬の銀貨二十枚に驚きを隠せなかった。
カサバとはダブリアの一部地域のみに生息する赤い花で、雪の深いところにしか咲かないとされる。
薬草であるカサバは船酔いに効果を示し、雪国ダブリアでは名の通った花。
だが、原生地が限られていることから、南国では重宝されていることを衣織は知っていた。
きっと南国の商人からの依頼で、蓮璃が吹っかけたのだろうと思った。
そうじゃなければ、こんな簡単な仕事に銀貨二十枚はおかし過ぎる。
鼻歌交じりで意気揚々と採取に向おうとした衣織を、蓮璃は笑顔で呼び止めた。
――最近、この手の依頼が多くて、この辺りの森のカサバは採り付くしてしまったみたいなの
彼女の言葉をすんなりと信じた自分が、悔やまれてならない。
――だから少し危険だけれど、ソグディス山の中腹まで足を伸ばした方がいいわ。確か、大きな洞窟があったでしょう?
ソグディス山に登ることに、少しも抵抗がなかったわけではない。
だが、あの時の自分は少し変だったのだ。
銀貨二十枚に目が眩んだのが敗因。
「わかった」と返し、吹雪く山に嬉々として飛び込んだ。
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