バシュル山の逃亡戦 2/7
「ダリューン卿、お手をわずらわせて申しわけない」
女の声にダリューンは物思いから引き戻された。後方を馬で追うナーマエが、話しかけてきたのだ。
ダリューンは馬の速度をゆるめずに、前を見据えたまま答えた。
「なにをおっしゃるか。あなたほどの馬術があれば、カーラーンの部下どもも手が出ますまい」
そう。彼女の乗馬の腕は本物であった。
おそらくそれは自分やナルサスに劣らぬほどで、めったなことがない限り、助け舟をだす必要はないはずだ。
しかし――
言っても、殿下はまだ子供であるし、エラムにいたっては殿下より年少である。
子供ふたりに女ひとりときた。
これから、行く先々でルシタニア軍を相手どらねばならぬというのに、自分とナルサスの戦力だけでは、はなはだ厳しい状況であった。
この使者がなにか途方もない力をもつというのであれば、それをぜひ当てにしたいものだ。
ダリューンは横目で使者を見やったが、その表情は、深くかぶったフードに隠されていて見えなかった。
ダリューンのあとを馬で追いかけていると、立ち並ぶ木々が次々と視界を流れていった。
夜空に散りばめられた星が、雲の間から輝いている。今宵は月が明るく、松明をもたずとも自分の周りがよく見えた。
すぐそばを王太子アルスラーンが馬で駆けている。
黄金の兜をかぶり、白い馬をあやつるその姿にはあどけなさが残る。
ナーマエはアルスラーン王子を守るためパルス国へやってきた。
しかし戦場で武術をもたない者の役割は限られており、しかもアルスラーンは、彼女より、己の身を守るすべに長けていた。
味方の足を引っ張って、王子の身を危険にさらすことだけはあってはならないと、ナーマエは自分に言い聞かせていたが、いかんせん不安である。
浮かない顔でいると、前を走るダリューンが先ほどの会話に言い加えた。
「ただ、わかっておられるだろうが……部下どもが反撃に転じたとき、あまり遠くにはなれなさるな」
「はい。おっしゃるとおりに」
あわただしくダリューンのあとを追いながら、ナーマエはうなずいた。