詰め込み処


 呪術/七海夢



「七海さんって、本当に良識のある男性ですよね!」

昼下がりのカフェテリア。落ち着いた雰囲気のテラス席で男女が向かい合って会話に花を咲かせていた。白磁器のカップを持った女性――白波おなまえは、朗らかに笑みながら目の前の男性のことを褒めた。

良識ある男性。その言葉が120%の善意であることは分かっていたが、七海はどうにも心から喜べないまま「ありがとうございます」と述べた。言葉の聞こえは良いが、おなまえが七海のことを異性として意識していないからこそ出た発言だということを、七海はしっかりと理解していた。

確かに七海建人という男は良識を箱に詰めたような人物だ。多少無愛想な所はあれど、誰に対しても礼儀正しく接し、規律を重んじ、責任感に溢れた人。…それが、彼という人物を表す要素だ。
他者からこういった評価を受けるのは七海にとっても悪い気はしないことだろう。しかし、その対象が数年越しに想いを寄せ続けている女性だとしたら。

七海の気も知らずににこにこと笑うおなまえは、目の前の男が自分に好意を寄せていることなど気づきもせず、彼のことを「良識がある」「いい人だ」と繰り返し手放しで褒め称えるのだった。
この話題を続けていても実りがない。そう判断した七海は、つい先日耳にした噂話を口にする。

「そういえば、噂になっていましたよ。公衆の往来で大声を張り上げて貴女へ想いを告げた人物が居たと」
「ヤダ、耳が早いんですね、七海さんったら」

白い頬を桃色に染めたおなまえが手をパタパタと振る。その様子はどこか満更でもないようにも見え、七海は己の胸中にどす黒いヘドロのような感情が広がっていくのを感じた。

「それで、どう答えたんですか」
「え…まさかの恋バナ。七海さんもそういう話題に乗っかたりするんですね〜」
「まあ、私も普通の男ですから」

七海のそんな言葉に、おなまえは「意外ですね」と言って笑みを零した。しかし七海とこうした雑談を広げるのが好きなおなまえはそれ以上疑問を浮かべること無く会話を続け「勿論、お断りしましたよ」と告げた。

「わたしには勿体ない方だったので。それに、一般人の方とは上手く行かないと思うんです。こういう職業ですから、つまびらかに出来ないことも多いじゃないですか」
「成程」

短い返答をしながら、七海はぼんやりと頭の中で考えた。もしも彼女と話しているのが自身の先輩である五条悟であったら。きっと彼ならば「そんな得体のしれないヤツじゃなくて僕にしときなよ」なんて軽口をさらりと吐くのだろう。
しかし七海は違う。秘めた想いを告げられぬまま、今の関係性を崩すことを恐れて立ち止まってしまう…そんな日々を過ごしてきたのだ。彼女が形成した「良識ある男性の七海建人」という殻を破るには、少々長く仮面を被りすぎてしまった。

「では、おなまえさんの理想の男性像はどういう人なんです?」
「な、七海さんの口から出たとは思えない質問…!」
「私を何だと思ってるんですか、貴女」

その大きな双眼を見開いて驚愕するおなまえ。その反応に一瞬動揺した七海であったが、目の前のおなまえが「えーっと」と質問の答えを考え始めたことで安堵の息を吐く。

「わたしの仕事に理解があって、優しくて、それから…のんびりでいいので会話が続くような、一緒にいて居心地のいい人…とか、ですね」

具体的なようで曖昧な返答を聞き、七海はそのワードを一つ一つ頭の中で反芻する。彼女の仕事に関しての理解なら誰よりもある、彼女たち補助監督とは呪術師をサポートする役割を担っているのだから。優しさもあるはずだ、七海は誰よりもおなまえに対して優しく接しているという自信があった。そして、居心地の良さはどうだろうか。こうして嫌な顔をせずに会話を弾ませてくれている様子を見ると、決して悪い空気ではないと判断できる。

「あ、そうだ、七海さんみたいな人がいいですね! 良い旦那さんになりそう!」

ポーカーフェイスを保ったまま悶々と考え込んでいた七海へと、大爆撃が落とされた。しかしこの言葉を素直に受け止めて尻尾を振るほど、七海は若くはなかった。七海さん「みたいな人」という余計な一言が、彼の胸をズドンと重く撃ち抜く。「結婚するにはいい人だよね」という言葉は総じて「胸焦がすような魅力はないけれど結婚相手としての条件は悪くない、妥協点である」という意味合いが込められていることが多いのだ。

それまでさざ波のような疼きを抱いていた七海の感情が、突如として大きな波紋を呼び起こす。この「良い人」止まりのまま、一体何年経過した? こうして言いたいことを伝えられないまま、目の前で彼女が見ず知らずの男に掻っ攫われて行く様を、指を咥えて見ているつもりなのか?
そんな疑問が頭の中いっぱいに響いたその時。気付けば七海は立ち上がり、おなまえが腰掛ける椅子の背もたれに手をかけていた。
七海の長い腕の中に閉じ込められたかのような状況に、おなまえはポカンとした表情のまま「七海さん?」と声を掛ける。しかし七海はその問いかけに答えず、サングラスの向こう側からひっそりと目を細めておなまえを見下ろした。

「…おなまえさん、場所を改めましょうか」
「はへ…?」
「自分で言うのも何ですが、私は貴女の言う通り『良識のある大人』なので」

脈絡のない答えに、おなまえは未だ目をパチパチと瞬かせている。七海はそんなおなまえの耳元まで顔を近づけ、空気を震わせるような低い声でこう囁いた。

「これから私は、貴女が答えに困って頭を抱えるような事を話そうとしています」
「え、あの、な、七海、さん」
「行きましょうか。視線を集めてしまった」

そう言って背もたれから手を離し、そのままおなまえに向かって手を差し伸べた七海。淡々とした表情と低い囁き声に導かれるがまま、おなまえは呆然とした表情で七海の大きな掌に自身の指を重ねた。
七海は遠慮がちに繋がれた手をキュッと握り込み、細く柔らかな感触を堪能する。同じ人間だというのに、骨の細さや肌の滑らかさがまるで違う。
勿論、七海にも女性経験が無いわけではない。それでも数年間想いを寄せ続けた人の手を握るという行為は、七海にとって何物にも代えがたい瞬間だった。

「あの、う…ど、どうしたんですか、突然…」
「その件はまた後ほど」

狼狽えた声色で七海に声を掛けるおなまえ。七海はそんな彼女の様子を横目で伺い、そして切れ長の瞳を見開いた。今まで少しも七海を意識していなかったおなまえが、顔を真赤に染め上げて七海を見上げていたのだ。
七海はずっと、穏やかに微笑む彼女の姿を見てきた。一時はそれだけでも充分だと自分に言い聞かせて。だが、こうして困ったような表情で眉を下げ、頬を染め、それでも繋がれた手を離そうとはしないおなまえを見てしまったが最後、七海は今まで秘めてきた愛情が暴発しそうな心地に襲われた。

「おなまえさん」
「はいっ」
「もう少し貴女と話がしたい、付き合ってくれますか?」

七海がそう問いかければ、おなまえは口をぱくぱくと開閉する。そして蚊の鳴くような声で「末永くお願いします…!」と呟いたのだった。

「…この場合の『付き合う』とは、貴女の時間を頂戴するという意味合いで」
「あっ、うわーっ、訳わかんない事言いましたね、わたし! すいません、忘れてください…」
「末永く、でも良いですがね。私は」

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