2.
あの不気味な暴漢から逃げ続け、赤也は数時間にも及ぶ逃走劇を繰り広げていた。
寒さの感じられる夜だというのに、体中から汗が吹き出し、息はぜえぜえと乱れている。
周りに足音が聞こえなくなってから、赤也は壁に寄りかかりながらずるずると座り込んだ。
「つーか・・・ここ何処だよ・・・あのホテルまで戻れねえっつーの」
小さな声でそう愚痴った赤也は、頭を抱えて目を閉じる。
このまま夜が明けて、大通りに出たら宿まで帰れるだろうか。
心配した柳や幸村たちが探しに来てくれるだろうか。
そんな願いを浮かべながら、赤也は深く息を吐き出した。
すると、曲がり角の向こうからズル、と何かを引き摺るような音が聞こえてくる。
それは徐々に赤也の方へと近づき、次第にあのうめき声も響いてきた。
「マジかよ・・・まだ追いかけてきてやがる」
焦点の合わない目でフラフラと歩く男性の姿は、まさしく『歩く死者』そのものだった。
柳が見ていたニュース番組を思い出し、赤也は背筋を凍らせる。
「とにかく、逃げねえと」
そう呟いて立ち上がった赤也の元へ、新たな物音が響き渡る。
男性が歩く方とは正反対の曲がり角。その向こうから、ザリザリというすり足の音が聞こえてくるのだ。
挟みうち。その一言が赤也の脳内をぐるぐると駆け巡り、彼の体が動きを止める。
周りを見渡しても、抜け道のような場所は見当たらない。
仕方なく、赤也はすぐ傍にあった大きなゴミ箱に狙いを定めた。
中に入っていたゴミ袋をかき出し、バケツの中に入ってふたを閉める。
ゴミ箱の中は、腐ったごみの匂いで満ちており、通常時なら近寄りたくもないと感じるだろう。
だが非常時の今となっては、これが唯一の望みだった。
赤也は身を潜ませながら、近づいてくる足音に体を強張らせる。
ジャリジャリ、とアスファルトを踏みしめる音と、あのガラガラという息遣いが、間近に迫っていた。
彼は震える体を必死に抑え、荒くなる息を何とか鎮めようとする。
だが、頭で考えるとおりには行かない。
緊張すればするほど体の震えは大きくなるし、心臓も早鐘を打つように激しく鼓動する。
心臓の鼓動音が漏れ出しているような気もしてしまう。
体中が震え、歯がかちかちと小さな音を立てた。
(早く消えてくれ、早く)
赤也はひたすらにそれだけを念じ、ゴミ箱の真横を通る男性に意識を向けた。
僅かにずれたフタの間から見える光景。
暗闇の中に、あの目の濁った男が立っていた。
まるで赤也の居場所を分かっているかのように、その場所で歩みを止めた男。
赤也は力の限り口に手を押し当て、目に涙を滲ませながら祈った。
数秒なのか、数分なのかは分からない。
赤也にとって何年にも感じられるような時間がたち、男は再び前を見て歩き出した。
その歩みは非常に遅いものだったが、少しずつ離れていく足音にホッと息を吐く赤也。
数時間ぶりに訪れた安心感に、赤也が体の力を抜いたその時だった。
唐突にピリリリリッ、という電子音が、彼のポケットから流れた。
携帯電話の着信音だ。
誰がかけてきたかはわからないが、無情にもその音は、静かな路地で高らかに響き渡る。
そしてそれは、過ぎ去ったと思われた脅威が、再び訪れる合図でもあった。
案の定、通り過ぎていって男がゆっくりと振り返る。
その濁った目が赤也の潜んでいるゴミ箱へと向けられた。
ズルリズルリと歩み返してきた男性の体がゴミ箱に当たり、蓋がガランと音を立てて滑り落ちた。
声帯が機能していないかのような、潰れた唸り声を上げながら、男は赤也に手を伸ばす。
「うわああああっ!」
その時だった。
ゴシャア、と気味の悪い音を立てながら、男の上体がぐらりと傾いた。
頭を何かで強く殴られたらしい。血液が飛び散り、それが路地の壁にへばり付く。
「やっぱり赤也君だ!」
薄暗く湿った路地には似つかわしくない、明るく高めの声が響く。
「は? おなまえ、先輩・・・?」
「大丈夫? 噛まれたりしなかった?」
赤也に向かってにっこりと微笑みかける少女、みょうじおなまえがそこにいた。
彼女は片手に持っていた武器を壁に立てかけ、ゴミ箱の中で座り込んでいる赤也に手を差し伸べる。
ぼうっとした顔でその手を取った赤也は、彼女の柔らかく温かい手をじっと見つめ、そして涙をポロリと零した。
「ど、どうしたの、どこか怪我したの?」
「いや、なんか、安心して・・・スンマセン」
何時間も不気味な男に追いかけ回され、挙げ句の果てに殺されかけたのだ。
いくら気丈な彼とはいえ、涙が浮かぶのも無理はない。
「つーか、おなまえ先輩・・・思いっきり殴ってませんでした・・・?」
「ああ、しょうがないよー非常事態だもん」
「おお俺、ちゃんと証言するっすよ!! おなまえ先輩が守ってくれたって・・・あれっす、セイトーボウエイって!」
正当防衛と言いたいのだろう。赤也は必死にそう言いながら、ゴミ箱の中でわたわたと手を振った。
だが当のおなまえは相変わらずニコニコと笑みを絶やさず、赤也を見つめている。
その様子に赤也も違和感を感じたのだろう。おなまえに向かって訝しげに問いかけた。
「あの・・・大丈夫なんすか、さっきの人」
「赤也君、もしかして・・・何が起こってるのか、知らない?」
おなまえがキョトンとしてそう言うと、赤也も同じ表情で首を傾げる。
それもそのはずだ。彼は先程から今まで、路地という路地をただ逃げ回っていたのだから。
赤也が今の状況を理解していない、ということを察したおなまえは、壁に寄りかかりながら静かに語り始めた。
「赤也君を襲ってた人みたいに目が濁って、追いかけてくる人がね、大勢現れたの。あの人たちに捕まると、生きたまま食い殺されるんだって」
まるで映画のストーリーのようなその説明に、赤也はポカンと口を開く。
「死者が歩くっていうニュース、見た?」
「見たっす、今日やってたやつっすよね」
「もう本当に、映画そのものなの。あの人に襲われると、襲われた人も同じになるって」
病気なのか、ウイルスなのか、寄生虫の類なのかはわからないが、奇病とでも言い表すしかないこの状態。
それが人伝いにどんどん感染していくと聞くと、身体に震えが走る。
「じゃ、じゃあ俺が、もし噛まれてたら・・・」
「うん、この人たちの仲間入りってこと」
「それって・・・まんま、ゾンビじゃないっすか!!」
「だから言ったでしょ? 非常事態だって。こんな状況なら正当防衛も何も無いよ。あの人たち、もう死んでるんだし」
おなまえはそう言いながら赤也をゴミ箱の中から引っ張り出す。
そして壁に立てかけていた武器を再び手に取った。
「先輩、それって」
「パイプ椅子」
「それで戦ってんすか!? もっとあるっしょ、銃とかナイフとか!」
彼女が持ち上げたもの、それは赤也が口にしたとおり、折り畳まれたパイプ椅子だった。
足の部分には赤黒い血がべったりと付着しており、もう既に数人仕留めているということが見て取れる。
「いやいや赤也君、パイプ椅子を馬鹿にしちゃいけないよ? いざって言う時は座れるし」
「むしろ座る以外に使い道あったんすね」
「これが私のエスカリボルグだよー」
おなまえはヒョイとパイプ椅子を担ぎ、足元に散らばっていた工具に手を伸ばした。
「これなんかいいんじゃない? 武器の一つも持ってた方がいいよ」
彼女から手渡されたのは、大きなスパナだった。
これなら確かに、頭を殴ってゾンビを仕留めることくらいできそうだ。
「まぁ、丸腰よりマシっすよね・・・」
「そーっと気づかれないようにするのが一番なんだけどねぇ。ま、これでとりあえず合流一人目達成したし、これから頑張ろう!」
「合流一人目って・・・あの、部長たちと一緒じゃないんすか?」
「それがさあ、ホテルでもパニックが起きて、別室だった私ははぐれちゃったんだよねえ」
まさか、たった一人でこの不気味な街を、しかもゾンビと戦いながら歩いてきたのだろうか。
普段から彼女の事を「女子にしてはタフ」だと思っていた赤也も、これには驚きのあまり閉口してしまった。
「そういえばさっき、携帯鳴ってなかった?」
「あ!! そうだ、電話かかってきたんすよね」
赤也がポケットから携帯電話を取り出し、画面を表示する。
そこには不在着信一件の文字が浮かび上がっていた。
「部長からっす!」
「幸村君もやっぱり無事だった! よかったー!」
赤也は嬉々として、幸村の携帯に電話を掛け直す。
電波も今の所は通っているらしく、正常に呼び出し音が鳴った。
『赤也!? 無事かい? 今どこにいるんだ?』
「部長! 俺は無事っす! あと、おなまえ先輩も一緒っすよ」
『みょうじさんも・・・! ああ、良かった・・・』
幸村は電話越しでも分かるほどに、深く息を吐いた。
赤也は久しぶりの笑顔を浮かべながら、携帯をおなまえに手渡した。
「もしもし、幸村君?」
『みょうじさん、大丈夫かい? 怪我とか、あいつらに噛まれたりは?』
「大丈夫、私も赤也君も無事。幸村君は大丈夫?」
『ああ、俺は真田とジャッカルが一緒だ。みんな無傷だよ』
おなまえは赤也に向かって「幸村君と真田君とジャッカル君、大丈夫だって」と小さな声で告げた。
「私たち、自分の居場所がわからないの。どこか目印になる所、ありそう?」
『それなら、街の東側に大きな教会があるから、そこで合流しよう』
「ああ、あの綺麗な所! わかった、向かうね」
『くれぐれも気をつけて、みょうじさん』
「ありがとう、幸村君もね」
おなまえは最後にそう告げると、携帯の通話を終了する。
そして赤也に今話した内容を伝え、辺りを見回した。
「大通りに出て、教会まで行こっか。静かに移動すればきっと大丈夫だよ」
「そっすね・・・今度は俺もおなまえ先輩を守りますから」
「うん、頼りにしてるね」
からりと笑顔を浮かべたおなまえが先頭を歩き出す。
彼女のピンと伸びた背中を見ると、自然と赤也の背筋も真っ直ぐになる。
彼女と一緒なら大丈夫。
そう思わせる何かが、おなまえにはあった。
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