詰め込み処


 1.









はあ、はあ、と少年の荒い息が路地に響く。

滝のような汗を流しながら、必死に歩を進めるその癖毛の少年は、しきりに背後を警戒するように何度も振り返っている。
もう長いこと走り続けているのだろう、その足は時折ズルリと滑り、その度に彼はバランスを崩して転びそうになる。だが、それでも彼は歩みを止めなかった。

「くっそ、何でこんな事に・・・」

まるで映画のワンシーンのようなセリフを吐きながら、彼は壁に手をつきながら前へと進んだ。
アメリカという見知らぬこの土地で、彼が・・・切原赤也が逃げ惑っている理由。それは数時間前に遡る。







赤也が所属する、立海大付属高校の男子テニス部は、海外遠征という名目でアメリカに訪れていた。
することと言えば普段の練習や試合と何ら変わりないのだが、見知らぬ地ということもあり、彼らは普段以上に気を引き締めて練習に臨んでいた。



しかし、そんな日の夜のこと。

宿の一室で、赤也と共に柳蓮二や丸井ブン太がテレビに食いついていた。
とはいっても、テレビのニュース画面から流れる音声は全て英語であり、英語が苦手な赤也にとっては子守唄以外の何物でもないのだが。
さほど英語が得意でないブン太はニュースの見出しだけ眺めているようで、この部屋の中で話を理解しているのは柳蓮二ただ一人らしい。

ニュースを聞いていた柳が、ピクリと眉を動かして画面を見据える。


「どうかしたんすか?」

赤也がそう問いかけると、柳は数秒の沈黙の後に口を開いた。

「死者が動く、という事件が多発しているらしいぞ」
「なんだそりゃ。アメリカ人ってそういうゴシップ好きだよな」

柳がつぶやいた言葉に、ブン太がからからと笑い声を上げる。
その直後に、テレビにはボロボロの姿の男性がフラフラと歩く姿が映し出された。
まるで幽鬼のようなその動きに、赤也は思わず言葉を無くす。
だが隣でごろりと寝転ぶブン太が「すっげえ、役者まで使ってやがる」と言いながら笑い転げるので、赤也もそれに乗じた。


「では、俺が見たのも撮影用だったか」
「は?」
「今日の夕暮れ時だったか、ちょうどこんな男がもう一人の男を追いかけ回していてな。随分と治安の悪い場所だ、と思ったんだ」

淡々と話す柳に、赤也とブン太は「おおー」と感嘆の声を上げる。
日本人の気質か、テレビ番組の撮影を目撃するということに対して一種の憧れがあるらしい。


「おなまえ先輩にこれ話したら、ビビりますかね!」
「死者が動く、ってやつか? やめとけよ、幸村君に怒られるぜ」
「そうだな。それに、みょうじは、ホラーの類は平気だったはずだ」
「なーんだ、つまんねえ。確かにお化けより幸村部長のがよっぽど怖いっすもんね・・・俺ちょっとトイレ」

体に妙な寒気を感じ、赤也はそう言って席を立つ。

「ああ、この部屋のトイレは調子が悪いそうだから、階段近くにある共有トイレを使うといい」
「マジっすか!? うわ面倒くせー」

そうは言っても、もよおしてしまったものは仕方が無い。
赤也はぶちぶちと文句を垂れながら、部屋の外へと姿を消した。


「なあ丸井、お前はどう思う」
「いや、何の話だよ」

突然そう問いかけられては、ブン太が戸惑うのも無理はない。
柳は数秒考えてから「死者が動くという事件だ」と口にした。

「え? もしかして信じてんのか?」
「気にはなった。だから、調べてみたんだ」

そういいながら、柳はいじっていた携帯の画面をブン太に見せた。
そこには新聞記事の画像が表示されており、先ほどのニュースと同じく『死者が歩く!?』と英語で大きく見出しになっていた。

「数年前にも同じような事件が起きたそうだ。ここではない場所だが、当時大きな騒ぎになったらしい」
「へぇ・・・でもこれ、1998年って書いてあるぜ。この事件のオマージュイベントとかじゃね?」
「この新聞は1998年の9月21日、ラクーンシティという街で発行されたものだ」
「ふーん」
「だが、不思議なことにその街は、この新聞記事が発行された一週間後・・・28日に謎の爆発事件が起きている」

柳が発した言葉に、ぴたりと動きを止めるブン太。
全く同じ事が起きすとすると、近い将来にこの近辺も爆発事件が起きる、柳はそう言いたいのだろうか。

「爆発事件と言っても、スケール自体は爆撃や核爆発のそれだ。なにせ、街一つが消し飛んでいるのだからな」
「ちょっと待てよ、そんな爆発、面白半分で起こせるようなモンじゃねーぜ」
「ああ、その通りだ。だからこそ、俺は何か嫌なものを感じてしまった」

柳のその言葉を最後に、部屋の中に妙な静寂が訪れる。
もしかしたら自分が今いるこの街も、例のラクーンシティと同じように爆発事件の被害を受けるんじゃないか。
それは、異国の地に訪れている十代の少年を不安にさせるには、十分すぎる話だった。

「明日、ちょっと早めに幸村君に言おうぜ。お前と幸村君が言えば、監督も馬鹿にしねえで聞いてくれるだろうしよ」
「そうだな、効果のありそうな台詞でも考えておく」
「じゃあ俺も寝るわ。寝れるかどうかわかんねーけど寝る!」
「ああ、おやすみ」

ブン太はそう言いながら、おもむろにベッドから立ち上がる。
そして、赤也が半開きにしていった扉へと歩を進めた。


ギイィ・・・と、嫌な音を立てながら開いたその扉。

だが、ブン太はまだドアノブに手を触れてはいない。
そんな状況に一瞬肝を冷やす2人だったが、その扉の向こうに立っている人物を予想して、方の力を抜いた。

「赤也お前・・・変なタイミングで帰ってくんなよな!」

そう言いながら、ブン太はその扉を勢い良く開いた。





***





「そういや喉乾いたな・・・冷蔵庫にも何も入ってねーし、下まで買いに行くか」

無事にトイレから戻ってきた赤也だったが、喉の渇きを感じて立ち止まる。
宿のロビーに、ポツンと置かれていた自販機の存在を思い出して、階段を下へと向かって降り始めた。

「買い方覚えてっかなー・・・」

日本とは通貨も自販機の形状も違うこの国。それに加えて言葉のわからない赤也は、何をするにも不安でいっぱいらしい。
心配げにポケットの中の硬貨をジャリジャリと鳴らし、彼は階段を降りた。


一階のロビーにつくと、そこには誰の姿も無かった。
薄暗い照明のなかで、自販機の人工的な明かりだけが眩しく浮かび上がっている。

その光景に、赤也はどこか底冷えするような恐怖感を感じてしまい、足がすくむ。
だが高校生にもなって、飲み物ひとつ買えずに先輩を頼るというのもしゃくなのだろう。赤也は一度深呼吸をしてから、軋む床板を踏んで進んだ。

すると、無人のはずのカウンター内から、どさりと大きな荷物が落ちるような音が響く。

「うぎゃああ!!」

音に驚いた赤也が飛び上がって叫び声をあげる。

「な、なんなんだよ、何か落ちただけだよな…」

そう自分に言い聞かせながら、赤也は恐る恐るカウンターの方へと歩く。
暗くてよく見えないが、木製のカウンターの上に何かが乗っているのが見えた。
生唾を飲み込みながらそれに近づくと、やっと正体がわかった。
カウンターに、男性が突っ伏しているのだ。


「え、うそだろ、大丈夫っすか? ええっと、え、えくすきゅーずみー?」

たどたどしく英語で話しかけるが、その男性はうんともすんとも言わない。
数回呼びかけても反応が無いので、赤也はその男性の肩を叩いた。

ポンポン、と優しく叩くと、男性の体がぴくりと反応するのがわかった。
微かにでも反応があった事に安心したのか、赤也はほっと息を吐き出す。
そして、カウンターに突っ伏していた男性に向かって語りかけた。

「あー・・・調子悪いんすか? いや、やっぱ言葉通じねえか・・・えっと、カラダ! ボディ? わ、悪いは…バッド?」

とうてい通じるとは思えないその言葉に、勿論返答は無い。

すると、静かなロビーに赤也以外の吐息が聞こえた。
水分がなくなってガラガラに乾いたような、ヒュウヒュウという息遣い。
それは目の前の男性から聞こえてくるものだった。

「何か調子悪そうだし、やっぱ柳さん連れてくっか・・・なあ、ちょっと待っててくださいよ! ステイ! わかる?」

赤也は自身の喉の渇きも忘れ、目の前の男性に呼びかけた。
すると、その男性がゆっくりとした動きで上体を起こす。

「あっ、調子悪いんならそのままで大丈夫っすよ! ステイステ・・・イ」

男性の顔を見た赤也は、絶句した。彼の顔色が尋常ならざる色だったからだ。

土気色とでも言うのか、茶色と青色が混ざったような、何とも言えない肌色。白人でも、黄色人でも、褐色でも、黒人でもない。
言うなれば、腐りかけた死体のような、そんな色をしていた。

「え、ええーっと、すっげえ顔色悪いっすよ、ほら、安静に・・・ね」

赤也は内心ひどくうろたえながらも、必死に身振り手振りでそう伝える。
だが、目の前の男性は、乾いたうめき声を上げながら、白く濁ったその目で赤也見据えた。

そして、硬直した赤也の頭に蘇る、柳の一言。

死者が動く。
その言葉が、警告サイレンのように彼の脳内で響き渡った。


「ま、まさかだよな? ドッキリでしょ? 日本人騙して楽しい? 俺お金無いっすよ! ノーマネー!!」

赤也が上げた声を合図に、男性も動きを活発化させた。
ずりずりとカウンターの上を這いずり、赤也のいるロビー側へと転げ落ちたのだ。

「俺怪しいもんじゃないっすって!! ジュース! ジュース買いに来たジャパニーズ!!」

赤也の必死の説得も虚しく、男性はゆっくりとその場で立ち上がった。
そしてうめき声を一度あげると、赤也に向かって腕を伸ばして喰らい付いてきた。

「うわあああっ!!」

それをギリギリで躱した赤也は、息を荒げながら後ずさる。
勢い余ってつまづいた男性が、再びズルズルと床を這いずり始める。

赤也はハッとして、自分の置かれている状況を確認した。
部屋に帰るためには、降りてきた階段を登らなくてはならない。
だがその階段は、不幸にも男性の向こう側にある。
体を翻して避けたのが災いしたか、柳たちの元へと戻るためにはこの男性を突破しなくてはならない。

「っていうか、先輩たちんトコにこいつを連れてく訳にもいかねえだろ・・・」

上の階に行けば、この不気味な暴漢相手でも渡り合えるであろう真田だって居る。
だが同時に、女子であるおなまえも同じ階に居るのだ。

運悪く鉢合わせてしまったらどうなるか。考えただけで寒気がする。



そして、赤也は決心した。
一度外に出て、撒いてから戻ろう、と。

彼はそろりそろりと後ろへ下がり、宿の入り口を探った。
後ろ手にドアノブを掴むと、勢い良く扉を開いて声を上げた。

「くそ・・・こっちだぜ、来いよ!!」

日本語にも関わらず、男性は赤也の言う通り、入り口に向かって進み始めた。
赤也はギリッと歯を噛み締めながら、真っ暗な道を真っ直ぐに走りぬけていった。








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