01





聖マンゴ魔法疾患傷害病院のとある一室。

床も、壁も、天井も真っ白で、開け放たれた窓に掛けられたカーテンさえも純白のその部屋。眩しい程の白い病室の中には、二人分の人影が見えた。


一人は少女――カノン・マルディーニ。今年で13歳になる、年若い魔法使いだ。
薄手のワンピースと上着を身に付け、さらりと艶やかな黒髪を揺らしている。まだ表情はあどけなさを残しているが、息を呑むほどに美しい顔立ちをしている少女だ。清廉な雰囲気の中で、彼女の両目にある深紅の瞳がどこか妖しいきらめきを放っていた。


もう一人は男性。
名をセブルス・スネイプというその男性は、黒い髪に黒いローブ。おまけにマントも靴も瞳も、全てが真っ黒だ。眉間に刻まれた不機嫌そうな皺が、今この瞬間だけは優しげに緩んでいた。




「君が待ち望んでいた日になったが、気分はどうかね」

スネイプが、低く柔らかな声で問いかける。
するとカノンは、口角をキュッと持ち上げながら「最高です!」と答える。

そして、壁に掛けられたカレンダーに目を向けた。
数字だけのシンプルなそれに、赤いペンでバツ印がつけられている。
唯一、九月一日の所にだけ赤い丸印だつけられている所を見ると、彼女は今日この日を随分と楽しみにしていたらしい。


「でも、正直言うとあっという間でした。勉強することが多すぎて」

さらりと顔にかかった髪を払いながら彼女は、何ともいえない顔をした。
二年間篭ったこの病室で、いったいどれほどの知識を蓄えたのか。
本人にも見当がつかないほど、彼女は学んでいたからだ。

「心配ご無用だ。五学年に上がれば、更にハードな試験勉強が待ち構えている」
「それは心配ご無用とは言わないんじゃ・・・」

形のよい唇をひくつかせながら固まるカノン。
そんな彼女の反応が面白いのか、スネイプも唇をめくり上げて笑顔のような顔になった。


「さて、そろそろ出るとしよう。早めに行ってコンパーメントを取らねば、ホグワーツまでの道を立ったまま過ごすことになる」
「そうなったら、教授と一緒の方法でホグワーツへ行けますよね?」
「残念ながら生徒と教職員は別のルートを使うというのが規則だ」

きっぱりと言い切られ、カノンは不服そうに唇を尖らせる。

「そうむくれるな。これから一年間、嫌という程顔を合わせることになろう。さあ、Ms.マルディーニ。出発の時間だ」
「はい、スネイプ教授」

カノンが立ち上がると同時に、黒い革張りのトランクケースが音も無く浮かび上がる。
シルバーで出来た装飾の中心に光る、蛇の紋と【Slytherin】の文字。
陽の光を受けてきらめく銀細工を眩しそうにみつめる少女は、嬉しそうに笑みを浮かべた。



今は亡き、と語られるスリザリンの血筋。
その血を身に宿した少女、カノン・マルディーニが紅い瞳をきらめかせて顔を上げる。宝石のようなその瞳にこれから何を映していくのか、彼女の行く末を知る者はまだ居ない。







***







病室での会話から少し経った今。

カノンは、走り出したホグワーツ特急の中でコンパーメントを独占していた。汽車が走る音と、遠くに聞こえるざわつきを聞き流しながら、彼女は手元の本を注視している。

スネイプから入学祝として贈られた【世界魔法薬100選・癒しの薬編】というタイトルの分厚い本だ。
その中の【東洋薬学に利用される有用な薬草一覧】と書かれた章を何度も何度も指でなぞりながら文字を追っていた。


そんな彼女の至福の時間をうち破るかのように、突如「コンコン」というノック音が響いた。
真横にある扉から鳴った音に、カノンはパッと顔を上げる。
扉に付いているガラス窓の向こうに、背の高い男子生徒が立っていた。

勿論見覚えのない顔だったが、カノンが用件を聞くためにその扉を静かに開いた。


「すまないね、読書中に」

そう切り出した男子生徒。
制服をきっちりと着込み、黒い髪を模範的な長さで切っている。
胸に「P」と印字されたバッジを付けている所をみると、上級生。それも監督生のようだ。

「その、申し訳ないんだけど、ここって君一人?」
「ええ、見ての通り」

カノンが頷くと、男子生徒は頭をかきながら話を続けた。

「もし差し支えなければ、僕もご一緒していいかな」

申し訳なさそうに紡がれたその言葉に、カノンは快く頷いた。
彼女にとって一人静かな読書の時間は大切だが、それはもうこの二年間で嫌というほど味わった。
それよりも、初めて会うホグワーツ生から話を聞く方が格段に有意義な時間を過ごせるだろう。

そう考えたカノンは、おずおずとコンパーメントに入る男子生徒に向かって、正面の席を薦めた。


「ごゆっくりどうぞ」
「ああ、ありがとう! 本当に助かるよ」

胸を撫で下ろしながら席に着く彼。
カノンと向かい合わせで座り一息つくと、目を合わせて口を開いた。

「名乗りもしないでごめん、僕はセドリック・ディゴリー」
「私はカノン・マルディーニ。よろしくセドリック」

汽車が走りだしてしばらく経った今になって、彼が席を探していた理由。
聞けば、今年監督生になった自分は、毎年一緒に座っていた友人と違う車両に乗っていた。
いざ見回りを終えて戻ってみると、その友人が前学期末にできたばかりのガールフレンドと一緒にいたらしい。
完全に二人の世界に入っている彼等と同じコンパーメントに、入ることもできず困っていたと。

何とも不憫極まりない理由に、カノンの胸には同情の二文字が浮かんだ。


「それは、災難だったとしか言えないね」
「君が入れてくれて、助かったよ」

コンパーメントの中に和やかな空気が流れ、二人の口数は数分立たぬうちに増えていた。







「へぇ、編入生」

目をぱちくりさせながら、セドリックがそう復唱する。
ホグワーツ入学以来初めての事なのだろう。

「珍しいなぁ」
「二年間聖マンゴに居た私に、ダンブルドア先生が特別措置をとって下さったの」
「そうなんだ。勉強とか大丈夫かい? 分からないことがあったら寮関係なく聞きにおいで」

優しく気遣うその言葉に、カノンは柔らかな微笑みを浮かべて「ありがとう」と返す。彼の胸で光る監督生バッジの所以が、早くも垣間見えた瞬間だった。



二人があれやこれやと会話を広げていると、汽車の外は風景を見渡すのも難しいくらいに暗くなっていた。いつの間にか車内のランタンに火がともり、コンパーメントの中を温かく照らしている。

すると突然、汽車がガクンと揺れる。
そして、何故かスピードが落ち始めたのだ。


「もうそろそろ到着なの?」
「いや・・・ホグワーツまではもう少しかかるはずだ。いつもならこんなことは無いのに」

不思議そうな顔で立ち上がり、通路に顔を出すセドリック。
まわりのコンパーメントでも同様に、生徒たちが戸惑っていたのだろう。
セドリックは同じく顔を出している知り合いと、二言、三言言葉を交わしているようだ。

そうしている間にも汽車は速度を落とし、もう一度ガクンと揺れたかと思うと、今度は完全に停車してしまった。

同時に車内の灯りがいっせいに消え、自分たちの足元すら見えない暗闇が汽車を包む。
突然真っ暗になった車内で、カノンが小さく息を呑む。
そのうち、どこからか冷たい空気が流れてくるような気もしてきた。


「不気味・・・」

小さい声でカノンがそう呟くと、立ち上がっていたセドリックが再び席に着く。だが今度は向かいの席ではなく、カノンと扉の間にだ。視界が暗いのは変わらずだが、隣から伝わる人肌の温もりに、カノンの強張っていた肩から力が抜けた。

だが、車内の不気味さは依然として変わらない。
それどころかますます冷気が強まり、窓の外側に付着した水滴がぴきぴきと音を立てて凍り付いていく。

「いったい、何が」

セドリックがそう呟いた瞬間、扉の向こうに何者かの影が見えた。
ゆらりゆらりと、水に浮く布のような動きをするそれは、音も無くするりと進んで行く。
滑るように進んで行くと思いきや、その影は二人が居るコンパーメントの前で動きを止めた。

手のように見える部分を動かし、扉を開けようとしているのがわかる。
セドリックは咄嗟に杖を構えるが、この経験したことが無い状況に、有用な呪文を唱えることもできない。
2人は、コンパーメントの扉がゆっくりと開いていく様をただ見つめるだけだった。


ギギ、と小さな音を立てて開かれた扉。
その間から、身も凍るような冷たい空気が流れてくる。
真冬の空気のような冷たさに、2人の吐く息が白くなっていた。

寒さを感じたと思えば、次は妙な音が響き始めた。
喉の調子が悪い人の息音のような、ガラガラとした音。
開かれた扉をくぐって近寄ってきたそれが、月明かりを受けてぼんやりと浮かび上がる。


「吸魂鬼・・・」

そう呟いたのはカノンかセドリックか。
二人とも、文献でしか見たことの無い闇の生物がそこに居た。
吸魂鬼。読んで字の如く、魂を吸い取り糧とする生き物だ。
有効な呪文はあれど、それは一介の学生がおいそれと習得できるものではない。

セドリックの杖先が徐々に力をなくし、腕が下がっていく。

その動きを敏感に感じ取ったのか、吸魂鬼は唐突に動きを速めて接近してくる。
顔面蒼白になりながらもカノンを背にかばい続けるセドリックの脳内に、絶望感だけが広がり始めたその時。
この不気味な空気を切り裂くような声が響いた。


「エクスペクト・パトローナム!」

吸魂鬼に対して唯一有効な、守護霊の呪文。
カノンが杖を振るうと、杖先から勢いよく、白く光り輝く守護霊が現れた。
噴水のように吹き出すそれはあまりにも眩しく、一体どういう姿なのかもわからない。


だが、効き目は抜群だった。

吸魂鬼は途端にカノンたちから距離を取り、慌ただしくコンパーメントから立ち去っていく。守護霊が発する眩い光が、暗い車内を照らす。冷え切った空気すらもあたたかく溶かしていくような、そんな光だった。

守護霊が吸魂鬼を追ってコンパーメントから顔を出していく。
すると、その巨大な守護霊の全貌が徐々に見えてきた。


カノンの守護霊は、ゆうに10メートルはある巨大な蛇だった。
その大きな口をバクリと開き、逃げ惑う吸魂鬼を追い立てていた。



シン、と静かになったコンパーメントで、二人は肩を寄せ合って座っていた。何時の間にかランタンにも再び火が灯り、汽車がゆっくりと動き始める。


「守護霊の呪文、初めて見たよ」
「ついこの間覚えたばっかりだけど、上手く行って良かった・・・」


力の抜けた様子でそう語り、ようやく薄く笑みを浮かべるまで回復したセドリックとカノン。



ホグワーツ城まで、あと少し。







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