私がこの「禪院家」に来てから三週間ほどが経った。色々と鈍感な私でも、そろそろこの家がどんな所かは薄々分かってくる頃だ。

 まず、やはりこの家はとんでもないお金持ちである。財力に加えて絶大な権力を持っているであろうことも伺えた。数え切れないほどに使用人が居て、直哉くんのご家族はみんな「様」付けで呼ばれている。私もそれに倣い、他の人が居る時は「直哉さま」と呼ぶようになった。

 直哉くんのお父さんの直毘人さん──もちろん、名前を呼ぶ時は「直毘人さま」と呼んでいる──厳格そうな人だったが、実際に話してみると意外に緩いというか、割と適当な物言いの人だった。お酒を飲んでいる所にしか遭遇したことがないから、だろうか。

 他にも直哉くんには叔父さんやお兄さんが居るらしいのだが「頭の固い兄さんら」と語るだけで挨拶をすることは無かった。正直、一気に挨拶をしても顔と名前を覚えられる気がしないので有り難い。それから、直哉くんの従姉妹にあたる真希ちゃんと真依ちゃん。まだ一度しか会ったことはないが、緊張した面持ちの二人はとても良く似ていた。聞いてみると、やはり双子らしい。

 私はというと、進学予定だった大学の通信課程を受講しながらのんびりと暮らしている。多忙な直哉くんを待ちながら本を読んだり、着付けや刺繍を習ったり、京都の街を散策してみたりと自由な日々ばかりだ。

 今日は朝からシトシトと細やかな雨が降り続けており、私が間借りしている離れはいつもよりも静寂な空気に満ちていた。雨の庭を散策するのもいいが、部屋の窓からぼうっと外を眺めるのも優雅でいい。

 この季節に降る雨を花散らしの雨≠ニはよく言ったもので、山桜の純白の花弁が雨に打たれて地に落ちていく。水分をはらんだ花弁はぽた、ぽた、と白い雫かのように落ちていき、それがいつしか池に流れ込んで水面を真っ白に染める。庭の奥で静かに佇む巨大な枝垂れ桜の木だけは他の桜の木よりも妙に早く開花してしまったため、花はすっかり落ちてしまっていた。

 縁側に面している障子の、更に一枚向こう側にあるガラス戸を少し開く。30センチほど開いた隙間からは冷たく湿気った空気が流れ込んできて、濡れた土のにおいが部屋の中へと広がった。アスファルトが雨に濡れた時は鉄臭く感じるが、この家の庭はひどく豊かな香りがする。湿った土や木々と青い草のにおい、それらに混じる花の芳香。様々な香りを内包した水分がふわふわと揺蕩い、やがて私のもとへと辿り着く。

 今までは雨に美しさなんて感じたことは無かったのに、この家に来てからは何もかもが綺麗に見えてしまうのが不思議だ。縁側に腰を下ろして庭を眺めていると、母屋の方向から続いている飛び石の上を誰かが歩いてくるのが見えた。……まあ、この離れに訪れる人物はそう多くないので、その正体はすぐに分かるのだけれど。

「直哉くん」
「何や、穂花ちゃん。出迎えてくれたん」
「ふふふ、ちょうど直哉くんが来る気がして……なぁんて」
「調子ええこと言うわ、ほんま」

 直哉くんは手に持っていた透明なビニール傘を畳み、軒から伸びる柱に立てかける。今日のような湿度の高い日でも、普段と変わらぬ書生服が素敵だ。あのスタンドカラー、暑くはないのだろうか。

「直哉くんもビニール傘とか使うんだね」
「和傘やと思うた? 見た目はええんやけどね、重いわ、視界も狭まるわでええこと無いで」

 なるほどそういう理由もあるのか、と私は素直に納得した。それでも、直哉くんの持っていた傘はコンビニで売っているものとは明らかに違っていて、柄の部分はおしゃれな木目調だし、骨の数も明らかに多い。もしかしたらあれは、皇室御用達的な高級ビニール傘なのかもしれない。

「今日は何してん」
「お庭見てたの」
「明日の予定は」
「お庭見るの」
「そればっかやな」

 ポンポン、とテンポ良く進んでいく会話が心地よくて、私も直哉くんも同じくらいのタイミングで笑い声を漏らす。直哉くんはそのまま縁側を乗り越えて部屋の中へと入り、畳の上にどっかりと座った。

「お茶、持ってこようか?」
「ええ、ええ。穂花ちゃんに会いに来てんねんから。ここ座り」

 直哉くんが自分のすぐ隣の畳を叩いて私を促す。ぴったりと身を寄せるように隣に座れば、直哉くんは私の腰に手を回して更に体を密着させた。すぐ近くに直哉くんが居て、それだけで私の胸はドキドキと早鐘を打つ。

 ぎゅうっと抱き締められれば、私と直哉くんの体がひとつになってしまったかのような心地に安心してしまう。私の首筋に埋まった直哉くんの頭がゆっくりと動き、親に甘える子供のように肩を擽った。

「……もしかして、疲れてる?」
「せやねん、昨日の夜からずっと働きっぱなしでクタクタや。穂花ちゃんに癒やしてもらお思て」
「そうだったんだ。お疲れ様、直哉くん」

 昨日の夜からということは、一睡もしていないのかもしれない。そりゃあ疲れるわけだと思い、私は直哉くんの背中をゆっくりと撫でた。

「何か元気出ること言うて、穂花ちゃん」
「えっ」

 突然の無茶振りに、頭が真っ白になる。元気の出ること、そんな魔法の言葉は私の頭の引き出しには存在しない。ビビディバビディブーが通用しないこの世界で何を言えば良いというのか。うーんうーんと考え込んだ私の脳裏に、以前SNSで目にした一文がふわりと浮かび上がる。

「直哉くん、大丈夫? おっぱい揉む?」

 直哉くんはピタリと動きを止め、顔を上げる。びっくりするほどに無表情の直哉くんは額に手を当てて天を仰ぎ、それから小さな声で「……もむ」と言った。

「どこでそんなん覚えるん」
「ネットで……」
「あかん、ネットはあかんで。有害や」
「私を何歳だと思ってるの、直哉くん」

 まるで小さな子に言い聞かせるかのように言う直哉くんは、私の体をヒョイと持ち上げて自分の足の上に下ろす。胡座をかいている直哉くんの上にすっぽりと収まると、全身を包み込まれる安心感がとても心地よかった。

 すぐ上にある直哉くんの顔を見上げていると、彼は少し戸惑って「あんまこっち見んとって」と呟く。どうやら、お疲れ直哉くんは普段よりも少しワガママが増えるようだ。ご要望にお応えして直哉くんから視線を外し、彼の胸板に頭を預ける。すると直哉くんは一度深呼吸をしてから私の体を両腕で抱きしめ、遠慮がちな手のひらを私の胸元にそっと触れさせた。

「やらか」
「ノンワイヤーブラだからかなぁ?」
「こんな……ええ……こんなんで外歩いたらあかんでほんまに」
「えー」

 真面目くさった声色で言う直哉くんだったが、その手は休むことなく動き、時折胸の飾りを探るかのようにすりすりと指を滑らせている。今度、スクイーズでも買ってきてあげようかな。

「穂花ちゃんはあれやね、意外と動じひんタイプなんやな」
「そりゃあ……エッチな漫画じゃあるまいし、そこまでの過剰反応はしないよ」
「エッチな漫画とか読むん? やめえや俺の性癖ブチ壊す気か」
「最近の少女漫画はすごいんだよ、直哉くん」

 平然を装って会話を続けてはいるが、正直私の心臓はばくばくと煩く脈打っている。好きな人に抱きかかえられて何とも思わない訳がない。直哉くんは上半身を縮こませて、大胆にも私の胸に顔を埋めて「あー……」と呻き声を上げた。

「全身どこ触っても柔こいなぁ。抱き心地、猫ちゃんやん」
「直哉くんは筋肉ついてるから硬いね、かっこいいなぁ」
「筋肉好きなん?」
「筋肉がっていうか……直哉くんがかっこいいんだよ」

 別に私はムキムキマッチョが好きなわけではないし、直哉くんじゃなければ筋肉を見せつけられたところで「ふーん」で終わるだろう。直哉くんだからこそ、格好いいと感じるのだ。それを伝えれば、直哉くんは幸せそうな表情で「さよか」と呟いた。


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