直哉は幼少の時分より、禪院家を担う者としての教育を受け続けてきた。その中でも熱心に教え込まれたもののひとつが「如何に禪院の血を、術式を受け継いでいくのか」というもの。禪院家の血統は何よりも尊く、例えどんな事があっても後世に継いでいかねばならない。そこに余分なものを入れてはならない。純粋な、研ぎ澄まされたものだけを継いで征くのが直哉に課された最大の課題であった。

 しかしその反面、血が濃くなりすぎるというのは時に思わぬ弊害を呼び起こす原因でもある。この呪術界を牽引する存在として君臨している禪院家には、数々の優秀な術式を持った呪術師たちが関わり、交わってきた。だがここ数年、禪院家に相応しいとは言い難い子供が生まれることが多くなったのも事実であった。

 呪力を持ち得ない者、禄に術式も授からなかった者、呪具に頼らねばまともに戦えない者。禪院家が思い描く後継者に相応しくない子が生まれるたびに、彼らは頭を突き合わせて禪院家の行く末を案じるのだ。

 落伍者が生まれる理由に「一族の血が濃くなりすぎているのではないか」という声が上がることも往々にしてあった。それは禪院家のみならず、御三家と呼ばれる血族に共通するものである。しかし、代々受け継いできた血統に半端なものを入れることはできない。そんなジレンマが彼らを悩ませていたその頃……彼らのもとに「神代から続く血統を持った、稀有な少女が存在する」という情報が寄せられたのだ。

 天野穂花。呪力をほとんど持たない──所謂非術師でありながら、その身に宿る神気により呪霊を寄せ付けないのだという。彼女自身が呪霊を見ることはできないが、そこに居るだけで場を清浄なものにするのだと。

 当時、彼女の身辺調査に赴いた禪院家抱えの呪術師が三級相当の呪霊をけしかけたが、呪霊は怯えたように身を竦ませてジッと穂花のことを見るだけだった。これが二級、一級相当の呪霊になれば話は別かもしれないが、それでも彼女の持つ神秘の力は禪院家にとって数少ない、一族に引き込むに値する血であった。

 遥か昔に彼女の一族のルーツとなった一人の女神。その血を受け継いだだけでなく、特性をも色濃く顕現させた穂花の存在は水面下で、限られた人物のみが知り得ることとなった。これからの禪院家を担う者だけでなく、御三家の間に彼女の存在は知れ渡ってしまった。焦った禪院家上層部では「何としても神の血を禪院家に」という声が上がったのだ。当時、穂花と直哉がまだ十歳の頃の話である。


 呪術師の家系ではない天野穂花を禪院家に引き込むための立役者として白羽の矢が立てられたのは、奇しくも彼女と同じ年に生まれた禪院家の嫡男である直哉であった。財界に広く伝手のある禪院家は穂花の両親が勤める会社に手を回し、彼女とその親を京都の地へと呼び寄せた。そして、穂花が転校するであろう公立小学校に直哉を編入させた。

 禪院家は嫡子を外部の学校に通わせることは殆ど無く、直哉はこの編入を酷く嫌がった。何が悲しくて、猿の中でもとりわけ民度の低そうな連中と共に過ごさなければならないのか、と強く反発し使用人たちを困らせた。

 しかし編入からひと月が経つ頃には、彼は大人しく小学校への送迎車に乗り込むようになったのだ。着慣れない洋装に身を包み、五年生だというのに買ったばかりの真新しいランドセルを背負い、文句も言わずに古びた木造の校舎へと向かって歩いていく直哉。彼を突き動かしていたのは、生まれて初めての感情──恋心であった。

「直哉くん、おはよ!」
「おはようさん、穂花ちゃん」

 同時期に編入した直哉と穂花は、教室の一番後ろの列に席を設けられた。毎朝同じ挨拶を交わし、二人で昨日の夜にあった出来事を話す時間が、いつの間にか直哉にとってかけがえのない物になっていたのだ。

 彼の目に映る穂花は驚くほどに純粋で、清廉に澄み切った泉のような人物であった。一点の曇りも無い眼で真っ直ぐに前を見据え、誰に対しても朗らかで、人の悪口を言わない。直哉が育ってきた禪院家には殆ど存在しない人間……故に、直哉の目には彼女の持つ美しさが際立って見えたのだろう。

 そこに居るだけで場の空気を浄化してしまう雰囲気、彼女のつぶらな瞳の中にきらめく星々。まるで冬の空に浮かぶシリウスのごとく透徹した眼差しに魅入られ、直哉はいつしか彼女に恋をした。人は自分とより離れた存在に心惹かれるものであるとはよく言ったもので、直哉の想いは時間の経過とともに膨れ上がっていった。

 穂花への想いを抱いたまま、直哉はいつしか六年生へと進級していた。偶然か、それとも禪院家が手回しをしたのか。おそらく後者ではあるが、直哉は再び穂花と同じクラスになった。その頃の二人はすっかり仲睦まじい様子を見せるようになっており、禪院家の大人たちの思惑など知らぬまま、直哉は穂花との交流を続けた。

 穂花が何かに困っていればそれとなく歩み寄り「穂花ちゃんだけやで」と言って手助けしてやり、ペアを作るように指示された時にはいつの間にか穂花の一番近くに立った直哉が「一緒に組も」と声を掛ける。穏やかで微笑ましい二人だったが、彼らの時間はそう長く続かなかった。

 穂花の両親が、東京にある同業他社への転職を決めたのだ。そこには禪院家が口利きできる伝手も無く、また地方転勤や異動なども無い会社であった。

 義務教育期間である穂花に与えられた選択肢は二つ。両親とともに東京へ行くか、元々暮らしていた祖父母の家に戻るか。穂花は直哉との別れを惜しみながらも、両親とともに東京へ引っ越すことを決めた。

 そうして迎えた、小学六年の三月。卒業式を終えた穂花と直哉は、互いに別れの言葉を交わすため桜の木の近くで待ち合わせをした。まだ開花時期を迎えていない桜の枝の下で、瞳を潤ませながら引っ越しをしたくないと言う穂花。

「わたし、直哉くんとずっと一緒にいたいのに、直哉くん、大好きだよ、私のこと忘れないで」
「忘れるわけ無いやろ。俺も、穂花ちゃんとおんなしや」
「……ほんと?」
「引っ越して家が遠なっても大丈夫やで。手紙書いて送るわ、そしたら穂花ちゃんは俺にお返事書いてな」

 まだ携帯電話などの通信機器を与えられていなかった二人にとって、二人だけの秘密のやり取りをする手段は文通というものだけだった。直哉の提案に、穂花は涙を拭って何度も頷く。

「なあ、穂花ちゃんは俺のこと、ずうっと好きでいてくれるん?」
「好きでいる、約束するよ。手紙も沢山書くから」

 ひたむきに自分の想いを伝える穂花に、直哉もまた胸の内から込み上げてくる愛おしさを伝えようと必死に言葉を選んだ。幼い頃から、自分の機嫌は周りが取るものであり、使用人たちは言葉がなくても直哉がどう思っているか、何を欲しているのかを推し量るのが仕事。そんな環境で育った彼だ、自身の気持ちを言の葉に乗せる術には疎かった。

 それでも直哉は、どうにか自分の気持を伝えなければと思った。小学校を卒業しても、新しい生活が始まっても、誰と出会っても自分のことを一番に想ってほしい。誰にも余所見をしないでほしい。出来ることならば将来を約束した仲になりたいが、直哉には既に「禪院家において結婚相手は家が決めるもの」という概念があった。

 だが彼は、妻ではない女性を傍に置いている旦那衆を見てきたし、その女たちをどう呼ぶのかも知っていた。

「なら、穂花ちゃんは、将来俺の……お妾さんになってくれるんやね」

 到底、子供の吐く言葉ではないもの。大人が言えば酷く淫らな響きかもしれないが、まだ言葉の意味を正しく理解していない直哉にとって、それは今できる最大限の愛情表現だった。

 その瞬間、ふわりふわりと頭上から音もなく降る桜の花弁。限りなく白に近い、光に透けてしまうような桃色のそれが穂花の周りに舞い散った。花弁に包まれて幸せそうに笑い「大好きだよ、直哉くん」と言う。

 幻想的で、まるで夢の中で見た記憶のようなその光景を、直哉は一生涯忘れることは無いだろうと頭の何処かで自覚した。


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