小説 | ナノ

しとやかに這えてゆく


 一目見たその時から、彼に落ちてしまった。
 それと同時に、気付いてしまった。
 ああ、彼は、俺なんかが汚していい存在ではないのだと。



「ああ、おはようございます」
「…うん、おはよう」

 俺が事務所に着くのは、最後から数えたほうが近い。というのも、最後のつもりで来てるのにその最後にならないのは、ほぼ毎回と言っていいほどザップが遅刻してくるからだ。
 それでも遅刻はしないので、咎められたことは一度もない。そして、息を殺すようにひっそりと不測の事態に備える。
 もともと口数が多いわけでもない俺のそれを進行させたのは、レオよりも後に新人となった彼のせいだった。
 せい、とは言っても、ただ俺が勝手に避けてるだけだ。珍しい外見もこのヘルサレムズ・ロットでならさほど気にならない。
 優しい口調で吐かれたその言葉がじんわり浸透していくように、俺はあの日から呪いにかけられたように狂っている。もうずっと。




「ザップさん、また遅刻ですかね」
「情けない…先輩でも無遅刻だというのに」
「…まあ、俺も早いわけじゃないから」
「それでも遅刻はしていないじゃないですか。えらいと思いますよ」
「…社会人として、当然のことでしょ。ちょっと出てくるね」

 ちょっと今の言い方は、冷たかったかもしれない。吐きそうになった溜め息をぐっと堪えて、喫煙スペースのある外へと向かう。
 事務所内でザップが葉巻を吸ってることだし今更気にする必要もないのだけれど、俺がここにいる理由はそれだけではないから。
 煙草を口にくわえて、安物のライターで着火しながら軽く吸い込む。その火を消すと同時にゆっくり息を吐き出せば、紫煙がゆらゆらと揺れて空気中に吐き出された。
 普通に接してくれているのに、過敏になって冷たい言い方になってしまう自分が嫌いだ。
 この煙草もなんとなくで始めたけれど、今となってはなくてはならないものになっていた。
 ツェッドくんを意識しすぎて、まともに目も合わせられない。それでも、会話はできる。
 俺の顔を見た瞬間に挨拶されれば喜ぶし、わかりにくい表情が緩むように笑えば胸は高鳴る。そのくせ、見られてしまうと隠したくなる。
 もっと俺に見せて。でも、俺を見ないで。理不尽極まりない俺の願いごとは、こうしてひっそりと吐き出すことで自我を保てている。




「…きもちわる、」



 きっと、彼は俺のことなんて気にしていない。頭ではそうだとわかっているのに、それでも気にしてしまうこの女々しい思考はどうにもならない。
 だから今日も俺は彼から逃げるように、ひとりこうやって綺麗とは言えない空を見上げながらいっぱいにその煙を吸い込む。
 きっと彼もこんな風に煙草なんて嗜む人間は嫌いだろう、なんて偏見にも程があるけれど。
 でも、そうであって欲しいと願うのは、俺が彼に嫌われたいと心のどこかで感じているから。
 嫌われたい。好かせて欲しい。めちゃくちゃな俺の思考は、煙を吸い込むことによって解放される。
 でもそれは一時的なもので、いつでもそうしてるわけにはいかない。俺はザップたちほど強くないし、ただ使えるという理由だけでここに立っているのだ。
 それが命に関わるような危険な仕事であっても、彼の隣に立てるなら、下心見え見えでも。




「よし、お疲れ様。今日はもう帰っていいぞ」
「…じゃあ、お先です」
「お、なーんかお前最近付き合い悪いよなあ。もしかしてコレか〜?」
「…別に、そんなんじゃないよ」
「なんだよー、俺にも紹介してくれよ」
「そっちには困ってないでしょ、大体―」


 今日もひと仕事終えて、新着を告げたメールに今から行くとだけ返信をする相手は、ザップが期待するようなものではない。
 ザップは度し難いクズなんて言われてるけれど、裏を返せば、欲望に忠実なだけだと思うのだ。
 こんなことを言えばザップが調子に乗るだけだし、彼だっていい顔はしないかもしれないので黙っておくことにする。
 それでも、俺がやっていることはそのザップより浅ましく、最低で、ひどく幼稚な理由だから。
 なかなか引き下がらないザップに呆れ顔を向ければ、すっと彼の背中が見えた。

「まったく、あなたという人は…先輩にどれだけ迷惑をかけたら気が済むんですか」
「アァ? なんだ、やんのか魚類」
「先輩、用事があるのでしょう? 今のうちにどうぞ」
「おいこらてめえ無視とはいい度胸じゃねえか弟子の分際で、ん?」
「あなたの弟子になった覚えはありませんので。さ、どうぞ」
「…ありがとう、」


 ツェッドくんが俺とザップの間に立ってくれたのだとわかった時には、ザップとの言い合いが始まっていた。言い合いというか、ザップが突っかかっている、と言ったほうが正しいかもしれない。
 まだザップが噛み付くようになにか言っていたけど、お礼だけ辛うじて言えた俺に対して軽く頭を下げた彼はそんなザップなど気にせず、やれやれといった様子でザップを見ていた。
 ああ、なんでこんな俺なんかにも彼は、いつだって優しいのだろう。
 …いや、俺だけじゃない。彼はいつだって、誰にでも優しい。そういう人なのだ。
 名前を呼べば振り向いてくれる。まだ、手を伸ばせば届く距離だ。
 それなのに、手を伸ばすのが怖くてきゅっと握った拳を隠して、みんなに背中を向けた。
 これから俺がすることは、この誰にも知られたくないことだったから。




「よう、遅かったじゃん」
「…うん、ごめん。ちょっと仕事が長引いてさ」
「ふうん? 結構ブラックなの」
「…別に、仕事の話は今いいでしょ。それで? 今日はどうするの」
「そうだな、バックでどうよ」
「…いいよ」


 事務所からも家からも離れた街外れ、ネオンが光る如何にもという場所に俺はほぼ毎日向かう。
 特定の相手がいるわけでもない。同じ要求を満たす相手からお誘いの連絡が来て、その中から都合が良さそうなものを選んで返事をする。
 俺が彼に近付いてはいけない人間だと、実感するために。好きでもない男に身体を売って、彼への想いを遠ざける。
 そこに愛はないけれど、気持ち良ければそれでいいという相手もいる。特にこの男は俺を気に入ってくれたらしくて、やった数はもう両手でも足りない。
 彼の想いをこの一瞬でも断ち切って、自分が汚い人間なのだと実感させてくれるのなら、誰でも良かった。
 もうすっかり受け入れることに慣れてしまった俺の身体は、前に触れることなく後ろを解されても難なく反応するようになってしまったから。
 その最中に心の中で彼の名前を呼んで、汚してごめんと懺悔して、なんでもなかったかのように彼に会い、それを延々と繰り返すだけ。
 報われなくていい。一緒になりたいだなんて思っていない。我ながら頭が悪いと思うこのループは、今日も同じはずだった。



「ん、っぐ」
「あー、早く入れてー。な、もういい?」
「ん、や、ツェッドく、」
「…あ? 今、なんつった?」
「…っ、」
「…へえ、そういうこと、ね」


 俺よりも太くてごつごつした指の本数が増やされて、広げられる感覚に震えていた。
 いつも通り心の中では彼の名前を呼んで、現実では目の前の男を求める。機嫌が良くなればそれだけ男は俺に欲しいものを与えてくれるし、彼のことを忘れさせてくれるなら、それだけで充分なはずだった。
 それなのに、俺は今、なんと言った?
 気付いた時には男の声がワントーン低くなって、そのままずるりと指が抜かれた。お望み通りの姿勢になっていた俺からは、男の表情は見えない。
 でも、何回も寝たことのあるこの男がどんな性格かぐらいは知っている。
 気持ち良ければいい、そこは俺と変わらない。それと同時に、それだけではない男のプライドのようななにかを俺が抉ってしまったことは、間違いなくわかる。
 訂正しようと開いた口から漏れたのは、言葉にならない悲鳴だった。




「っあ…!?」
「お、結構一気にいけるもんだな。きっついけど」
「い、だい、っ、やだ」
「その好きな奴でも想像してろよ。名前なんだっけ? 興味ねえけど」
「う、あ、うぅ…っ」
「は、締まった。…きったねーくせに、そいつのこと、好きなんだ?」


 合図もなく奥まで入れられた凶器のようなそれも、理不尽な動きも、耳元で囁かれる罵声のようなその言葉も。
 俺にはどうすることもできなくて、ただ深く目を瞑って、終わるまで耐えることしかできなくて。
 違う、彼はこんなことしない、だって、俺なんかに汚されていいような人じゃないんだ!
 吐きそうなほど貫くようなその動きに、口元を手で押さえてみても声は漏れる。
 最後に男が息を詰めるように吐き出して、熱いものが弾け飛ぶ感覚に襲われる。顔を押し付けたシーツは、こぼれた汚い涙で濡れてしまっていた。
 もう興味はないとでも言うように、男のものが抜けていく。それと一緒に吐き出されたものが出て行く感覚はもう幾度と経験したはずなのに、気持ち悪いと思ってしまうのは俺自身に原因があるのか、それとも。
 服を着るような音がして、男が帰り支度を始めたのだとわかっても、俺は一歩も動く気になれない。
 痛々しいほどの沈黙を切ったのは、男の言葉だった。

「まあ、そのなんとかってやつと幸せになれると思ってんならとんだ甘ちゃんだけどな」


 精々頑張れよ、と。それだけを捨て台詞として去って行った男の気配が完全になくなってから、俺は重たい腰を上げた。
 …ああ、そうだ。俺も早く帰り支度をしなくては。こんな汚いベッドじゃなくて、綺麗に洗ってから、それで。
 わかっている。隅々なで洗ったところで、俺は綺麗になんてなれやしないってこと。
 それでも、たとえ彼に汚いと罵られたとしても、綺麗なままでいるのが怖かった。ずっとこうして生きていけると思っていた。
 それなのに、どうして。俺は今、彼のことを想うだけで、こんなに胸が苦しいんだろう?


「…ああ、そ、っか。ほしい、んだ」

 微笑まれたい。触れられたい。囁かれたい。その口から好きだと、言われたい。
 言葉にしてみればこんなに簡単なことなのに、俺の身体は汚い。たとえ今付着したこの汚さを洗ったって、身体の奥底の汚さまでは拭えない。
 どうしようもない後悔が涙となって流れても、この汚さを浄化なんてできやしないのに、目が溶けてしまいそうなほどに泣いていた。




「…おじゃま、します」

 痛む腰を押さえながら辿り着いた先は、俺の家、ではなく―事務所だった。
 泣き腫らしてしまって目は痛いし、シャワーを浴びるのすら億劫でかなり時間がかかってしまった頃には、もう家へ帰る電車がなくなっていた。
 歩いて帰れない距離でもないけれど、身体の重さには勝てない。少し気は引けたが、事務所に行く以外の方法は思い付かなかった。
 奥の部屋には彼がいるけれど、起こさないように入れば大丈夫だ。起こしたとしても、終電がなくなったと言えばいいだけ。
 祈るような気持ちで事務所の扉を開き、小声で挨拶をする。聞こえなかった返事にほっとして、なるべく音がしないようにそっと扉を閉めた。
 急なことで悪いけれど、仮眠室を借りて少し休ませてもらおう。クラウスさんがこのことを知れば心配をかけてしまうだろうから、あくまで仮眠だ。その後はどこかで適当に時間を潰して、家から来たことを装えばいい。
 そんな俺の考えを阻んだのは、ぺたぺたと床を這うような音だった。


「…先輩? こんな時間にどうしたんです、」
「…っごめん、起こしちゃった? 終電なくなったから、仮眠室借りるね」
「それはいいのですが…ちょっと、待っていただけますか」
「なに、っ…」
「失礼を承知でお聞きしますが、泣きましたか?」
「…っ!」
「…ああ、やっぱり。泣いたのですね」



 彼が起きてくることは想定内だった。できれば起きないで欲しいと、信じたこともない神に祈ったところで叶うわけもなかったけれど。
 今思えば、なにも答えずに仮眠室へと走るべきだったのだ。彼に嫌われても、寝たふりをしてやり過ごせば。この汚い顔を見られることもなかったのかもしれないのに。
 柔らかな感触が目元を滑った時には、彼に覗き込まれているのだと理解した。
 図星を突かれた俺の無言は、肯定を意味する。普段はザップ相手に吐かれるその溜め息が、自分に向けられているのだと思うと肩がびくりと跳ねた。

「とりあえず、なにか冷やすものを」
「い、い。もう、寝るだけだから」
「綺麗な目が腫れてしまいますよ。すぐ済みますから、」
「…じゃない、」
「え?」
「綺麗、なんかじゃない…!」


 思った以上に大きな声が出てしまった。そんなことはどうでもいいと、優しい彼の言葉を遮るほど。
 唇がふるえる。視界がぼやける。俯いた俺が泣き出したことに、もう気付かれているのかもしれない。
 もう限界だった。どうでもいい。嫌われたって。ただ、優しくしないで欲しかった。
 嫌いになれたらいっそ楽なのに、なんて思えないこと、自分がよくわかっている。
 これ以上優しくされたら、俺は諦められなくなってしまう。だから、自分の汚さを露見してでももう勘違いしたくなかった。




「俺は、自分から男に身体売るような人間だし」
「…え、」
「きみのこと、すき、なんだ」
「っ、」
「でも、俺なんか君に触れていい人間じゃないから。だから、」

 もうこれ以上、俺に近付かないで欲しい。気持ち悪いでしょ。
 なんてめちゃくちゃな告白なんだ、と思う。いや、そもそもこれは告白と呼べるのだろうか。ただのやけくそだ。
 握った拳の上に、止められなかった涙がぽつりと落ちた。頬を伝う生温いそれを拭う気も起きないまま、時計の秒針だけが響いている。


「顔を上げてください」
「…っ、」
「それなら、今から僕は先輩に触れます。いいですね?」
「あ、」
「…ほら、やっぱり。泣いても綺麗だ」

 優しく触れられて、頬を汚した涙の跡を拭われる感覚。視界の向こうで微笑む彼に呆気に取られて、思わず目を逸らそうとする。
 少し動けば離れると思ったその手は、案外しっかり掴まれてびくともしない。
 そのままぐっと距離を詰めるように顔を近付けられて、喉がごくりと鳴った。




「僕は、先輩のことが好きですよ」
「…へっ」
「それに、僕だって綺麗じゃないです」
「う、そだ、だって」
「本当ですよ。あなたを想って、むらむら…? します」

 疑問系ではあったけれど、彼の口からむらむらという言葉が出た驚きに俺の口は間抜けにもぽかんと開いて。
 これは、俺が作り出した都合のいい夢なんだろうか。だって、あるはずないんだ。
 嫌われたっておかしくない彼に、好きだと言われることなんて。
 そんな俺の考えは口に出さずとも表情に出ていたのか、くすりと笑った彼が体勢を整えた。


「自分に怒っているんですよ。もっと早くあなたに気持ちを伝えていれば、泣かせることもなかったのかと思うと」
「こっ、れは、君のせいじゃ」
「名前を呼んでください」
「ツェッド、くん」
「…はい。ほら、わかりますか?」
「あっ…」
「あなたに名前を呼ばれただけで、こんなにも僕は嬉しい」

 すっと、ごく自然な動作で腕を引かれたかと思えば、そのまま彼の胸に押し付けられた。その先で待っていたのは、早まる鼓動。
 ドキドキ、してる。声に出さなくてもわかるそれは耳を当てて聞くことでより鮮明になって、顔が熱くなってくる。
 そんな俺を知ってか知らずか、ふっと息を吐き出すように笑う彼のなんと眩しいことか。


「で、でも、俺、汚れて」
「汚れてません。綺麗です」
「…俺、数えきれないほど男と寝たんだよ」
「…その点に関しては、僕にも非がありますので。まあ、許し難いとは思いますが」
「だったら…!」
「それぐらいのことであなたを諦められるほど、軽い気持ちではありませんので」

 それだけ言うと、身体を離すように俺の肩に置かれた彼の手が―膝裏に回り、そのまますっと持ち上げられる。
 そう、まるで、男の子が女の子を運ぶ時の理想的な方法で。
 それを理解した途端、顔が弾けるように熱を持ってささやかな抵抗を試みたものの、そんな抵抗など気にしていないという様子で彼は仮眠室へと進んで行く。
 両手が塞がっているためか、足で蹴るように扉を開ける彼に驚きながらも、心地の良いベッドにふわりと降ろされた先で見えた彼の表情は、確かに俺の知る彼なのにはじめて見るものだった。




「僕は、あなたを寝かせるためにここに運んだわけではありません」
「どういう、」
「あなたが本気で嫌がることはしたくありません。…ですが、僕はあなたに触れたい」
「…えっ、あ、」
「どうか、僕のことを好きなら受け入れていただけないでしょうか?」

 まるでプロポーズみたいな言葉だと思った。ベッドに座った俺の下で、彼が膝を付き、俺を見上げてそんなことを言うものだから。
 俺の気持ちなんて、はじめて会ったあの日からとうに決まっている。それなのに、首を縦に動かす勇気が出ない。
 そんな俺に痺れを切らしたのか、もしくはわざとなのか。するりと脚を撫でる彼の動きに、思わず変な声が出る。
 ただ撫でられているだけなのに、優しすぎるその手付きは腰あたりに甘い痺れを生んだ。


「…や、あ」
「すみません、よく聞こえませんでした。もう一度言っていただけますか?」
「そこ、や、っ」
「…じゃあ、どこがいいですか?」
「…っ、」
「もう一度聞きます。…触っても、いいですね?」


 口調は優しいのに、有無を言わせない言い方をしてくるんだから、俺の腕は意識する暇もなく縦に動いていて。
 言葉はなくとも、それだけで充分だった。するりと一撫でされて、ゆっくり前が開かれる。
 下着越しにゆるゆると触られただけでも、それが彼の手なんだと思うと泣きそうなほどに気持ち良かった。
 でも、この声を聞かれたくない。唇を噛んで耐えていると、その動きがぴたりと止まった。

「声、我慢しないでください」
「…っ、だって」
「そうですね、じゃあ…声を押さえられたらいいんですよね?」
「どういう、んっ」



 今度はなんの合図もなく、唇に温いものがぶつかる。これが彼の唇だと気付いた時にはもう、動くこともできなかった。
 開いた口の隙間を縫ってぬるりとしたものが侵入してきて、そのまま絡め取られる。
 確かにさっきみたいな声は出なくなったけれど、息苦しさから鼻に抜ける自分の声が、吐息が、絡みあう音が、恥ずかしくてしょうがない。
 キスはそのままに、止まっていた下の動きが再開される。ひやりとした空気に晒されたことで、もう下着が降ろされていたことにそこではじめて気が付いた。
 少しひやりとしたその手が、直接触れ、ゆっくり動かされる。それなのにまだキスは続くどころか激しさを増す一方で、舌で刺激されるたびにその興奮がダイレクトに身体へと伝わってしまう。
 せめてどっちかにして欲しい。そんな気持ちで彼の身体を離そうと押してもびくともしないし、動きを強められれば力は抜ける。口の中では耳を塞ぎたくなるような音が鳴っているし、どうしたらいいのかわからなかった。
 ぐちゃぐちゃになった頭で縋るように彼を見れば、なにをどう勘違いしたのかその目が微笑むようにすっと細められ、次の瞬間には強い刺激に震えていた。


「っあ…あ、」
「たくさん出ましたね。気持ち悪くないですか?」
「…っん、だい、じょ、ひっ」
「…僕が今、あなたに手を出すことはとても簡単ですが」

 それと共にやっと解放された唇からこぼれるものを拭う暇もないまま、俺の吐き出したそれで汚れていないほうの手で後ろをするりと撫でられる。
 今日、それもここに来る前に別の男に刺されたそこを直に触られて寒気がしたのは、乱暴にされたせいじゃない。
 乱暴にされることならこういうことを始めた時から自然と慣れたし、自分の身体なんて気にしたことがなかった。
 ただ、汚れた俺の中心を、大好きな彼に触られるのが嫌だったから。
 そんな俺の考えを把握してのことなのか、ティッシュで手を拭いた彼が囁くように俺の耳元へと近付き、口を開いた。



「でも、僕はこれからもずっとあなたと一緒に生きていきたいですから」
「え…」
「あなたの傷が癒えるまで待ちます。だから、その時は」
「―あ、」
「もっと、あなたを教えてくださいね」


 溶けてしまうと思った目は確実に彼を視界に映している。枯れたと思った涙が、そのまま頬を伝った。
 その跡をなぞるように、下から上へと彼の指が拭ってくれた。その指が目尻に触れて、思わず目を閉じる。
 時間にしてみれば、そう経っていないのかもしれない。それでも、目を瞑って闇に包まれてる時間は長く思えた。
 指が目元から離れたのを感じて、そっと目を開く。ぼやけた視界がクリアになって、光の向こうで笑っているのは、ひとりしかいない。
 震える指で、彼の手に触れる。爪先から水掻き、てのひら、その反対側。這うような指の動きにも、ちっとも嫌がらず好きなように触らせてくれる。
 こわかった、さみしかった、くるしかった。そのすべてを吐き出すひとことを、今はじめて、目の前の彼へとぶつける。




「…すき、」



 彼の手を這うように触れていた俺の手に、逆の手が重ねられる。それは同じく這うように、ゆっくりと俺の手をなぞって。
 俺もその上から手を重ねる。くすぐったい、あたたかい、うれしい。それ以上、言葉はいらなかった。
 しとやかに触れるこの温もりは、俺たちを見つけるなによりの証だから。





fin.



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