黒い鳥は不吉を運んでくるのだと。
昔、どこかの知らぬ誰かがそんな根もない話をしていたのを覚えている。
そんな小さな話を信じ切っていたその頃の私は、そのすぐ側で欠伸をかいた男に言ったのだ。
鳥を変えたらどうだ、その色じゃあ不吉だ。
鳥?とやつはどうでもよさそうな顔で私を見上げていた。幾分若々しいその顔は、恐ろしいほどに色白で。若い時代、男忍は女装をするからかもしれない。筋肉のついた大人よりも、それよりまだついていない若い者に女役が務まるわけで。とくにこの男は優秀で、なにより、顔の形がひどく美しかったからかもしれない。
(なに俺様の顔に見とれてんの)
うるさい、見とれてない、と吠えれば、男は苦笑し肩をすくめた。やれやれ、といいながら笑う彼は恐ろしいくらいに美しかった。
(黒はね、影なんだよ)
男は言った。なんのことだ、といいかけて、――嗚呼、鳥か、と思い出す。
(だからつまり、‥‥そう、何色にも染まりやしないんだ。染まることなんてできないんだ。)
ふっと男は私に横顔を見せる。男の頬がその揺れる橙と同じ色に染まっていた。夕焼けが彼を焼いているのだ。男はじっとそれを見つめる。細めた瞳は、なにか悲しげに明日を見つめていた。
(だから、黒い鳥は、焦がれ焦がれた太陽にはなれず、そんで届かずに、あの眩しいひかりに包まれて、焼き焦がれるのさ)
振り向いたそれは、美しくて、なにより、‥‥悲しかった。
(俺様事態が、黒い鳥なんだ)
そう言って笑ってみせたその男は、酷くもろいことを、私は知っていた。だからこそ、私はその時思ったのだ。
そうはさせない、と。
ならば私が、それをとめてやろうと。
だから私は光になろうとしたのだ。
彼が、目指す場所に、私がいるのなら、私はきっと遠まわしでもかまわない、彼を守れると。
そう思ったのだ。
たとえ、男が火に向かって羽ばたいていったとしても、私はじとりと光を静かに彼へ向けていた。彼はそれがわかっているように、たまに私に振り向いて笑いかけてきた。それを見てるうちはひどく安心していたのを覚えている。
ぴたりとそれが止んだ時、私はどこに光を向ければいいのかわからなくなった。
どこにもあの、黒い鳥が見当たらないのだ。だから黒い鳥はやめろと言ったのだ。不吉だし、なにより目立たないのだ。
本当に、影のようだと思った。
そして、たった今、黒い鳥は私の元へ舞い降りてきた。彼の方ではなくて、彼があつかっている鳥の方だ。
足には白い紙が強く結ばれていて、鳥が早くほどけとばたつきながら、私の酷く震える指を急かしていた。
忘れていた。
やはり、黒い鳥は不吉を運んでくるのだ。
彼が来てからそろそろ週が二回回っただろう。声をかけることなく部屋へと入れば、彼は逆さまになっていた。片手だけで、全てを支えている形である。
「なに、してんだ?」
「なにかしてなきゃ鈍るもの」
「‥‥‥はっ」
そういって彼は笑えば、すとっと小さな音をたてて両足をざらりとした畳床に触れさせた。そして座る。
「いやなもんだねぇ‥‥なんだかじっとしてたら気味がわるい。」
「‥‥出たいか?」
「そりゃあねぇ」
でも真田の旦那の命令なら、俺様は聞くしかないのさ、と彼はひらひらと笑う。それが俺は妙に嫌だった。
俺は手にしていた布を、彼の目の前に置く。着物だ。できるだけ、涼しいのを選んで持ってきた。
「なに?」
「‥‥やる」
「は?」
無理やり押し付ければ、彼は困ったような顔をし、最終的には、苦笑した。それはたしか、前にみた事があった。
そうだ、忍が‥。
戦場で真田幸村がフラついた一瞬、影が通り、真田幸村の後ろで振り上げられていた刀が崩れて、それは真田幸村ではない血で塗れていて、俺は、その、忍が真田幸村を庇うところを見たことがある。
ただ腕を掠めていただけであったが、真田幸村は忍を酷く心配していた。そのとき、真田幸村に向けられた忍の表情。
あれだ。
そうだあの時たしかにあれを見て俺は思ったのだ。
なんて、悲しい面しやがんだ、と。
「独眼竜、どうかした?」
「あ‥いや、」
「‥‥着物、受け取っておくよ」
「‥ああ。」
そして、黙る。
しばらくの沈黙は、蝉の音をよく部屋へと通した。
彼をふっと見れば、目は合わない。
彼は、外をじとりと見つめていた。その横顔は、何よりも綺麗だった。俺はそれをただ見つめる。綺麗な顔にうつる、緑の線が、邪魔だと思った。
ふっと、もうこの世界にはいない筈の、自ら犠牲までして彼を守ったアイツを、何気なく思った。
強かったのか、と今更気がつく。
アイツは、俺の何倍も強かったのだ。
これから先、俺はこの男を守っていけるか心配で、全てを投げ出したくて、逃げたくて、でも離れたくはなくて、なのに、アイツは、迷うことなく、一生を捨て、重く扱い辛い、あの二本の槍を振るったのだ。死をわかっていながら、アイツは。
「独眼竜、」
彼は静かにゆっくりとこちらに振り向いた。男にしては長い後ろ髪がすこし揺れていた。
「あんたさ、真田の旦那に似てる、て言われたことない?」
「‥‥An?」
「真田の旦那には、よく言ってるんだけどさ、アンタら似てるねって。‥‥真田の旦那からなにも言われない?俺様がよくこんなこと言うって」
そういって苦笑する彼に、俺は眉をひそめた。
そして、少し考えた後、言う。
「どこらへんがだ?」
すると、しばらく黙った彼だったが、すぐに答えを出した。
着物に視線を落としながら、静かに言った。
「身分を気にしないところ、とか」
俺はその音を耳で受け止め、同じように着物へと視線を送る。
淡い夕焼け色の着物だ。
彼の、色なのだ。だから、似合うと思ってえらんだ着物だった。
「‥‥それだけか?」
「え?」
「身分を気にしないやつなんて、俺以外だっているぜ?小十朗だってそうだ。前田んとこも‥‥それから、上杉なんて」
そう言葉を吐き出した時だ。少しだけ、香りがついた風が通った。それと同時に、意識ひとつ。舞い降りた音に、俺と彼は同時に振り向いた。
「当たり前だ。謙信様は、身分など気にしない、お優しく素晴らしいお方だ。」
金色が、つやりと揺れる。それに二人、ただ目を奪われていた。そしてその光は、音もなく素早く立った。
「‥‥上杉の忍か、」
俺が言葉を音で出せば、彼女はちらり、とこちらを向いた。「独眼竜、邪魔してるぞ」と小さく言った彼女はすぐさま彼へと目をむける。そして、じとりと見つめた。目つきは悪いが、何故だかその視線は、優しげだった。違うならあるいは、
「久しぶりだな、‥‥佐助」
嗚呼、あるいは、そう、同情か。
「‥‥‥かすが」
「なんだ、大人しいじゃないか。お前らしくない。」
「‥‥はは。ああ、うん」
言葉を濁す彼に、そっと。
彼女は、笑った。
忍とは。
忍とは、あれか。
全ての忍びは、笑う仕草をするとき、悲しげな笑い方をするのだろうか?
彼女も、真田に向けて笑ったあの忍も、どうしてこう、そんな表情で笑うのか。
こちらが泣きそうだった。
変わりにこちらが泣きそうになるのだ。
彼女はちらり、とこちらを見た。俺が視線を向ければ、表情を引き締めた。
何か決意をしたような表情でもあった。
やめろ。
「‥‥おい、」
「佐助、残念な情報だ。いいか、心して聞け。」
彼女が何を言おうとしているのかなんて、俺は読心術なんて心得てるわけでもないからわかるわけないけども、けれども。
まさか、
まさか彼女は言うつもりではないだろうか。
「どういう意味?かすが」
嘘を崩そうとしているのではないだろうか。死んだあいつが残した、あの嘘を。
だめだ。
言ってはだめだと、わかっているくせに、唇が震えて彼女の声を阻止できない。なんて自分は弱いのだろうか。
夕焼けが、目を熱くさせる。
「‥‥真田幸村は、死んだ。」
透き通ったその声は、きっと彼の心臓をえぐっただろう。その反動で、脳の動きを一時的に止め、呼吸も一瞬だけとまり、瞳孔が小さく小さく変化し、開いていく。
えぐられた心臓は徐々に鳴る音を高めていく。どくどくどくと五月蝿くするだろう。きっと、そのとき体すべてが震えだしているはずだ。呼吸が再開したころは、乱れている。
そして、脳が動き出した、そのとき。
「ああ‥ああっ、あぁ、だんな、だん、ああ‥‥あぁああぁあ゛!!」
叫び声が、こだました。
その雄叫びは、彼の声が枯れるまで続くはずだ。忍の彼女は、そっと彼の肩に腕をのせ、後頭部を支えて彼を引き寄せ抱きしめた。
俺はただその光景を見渡していた。
橙の光が、優しく包んでいる。
それが酷く、優しげだった。
優しげに、悲しげに、そっと彼を包んでいた。
こちらが泣いた。
変わりにこちらが泣いた。
そっと涙を流すことしか、今の俺にはできなかった。
それしか、できなかった。
笑うように
泣いていた嘘つき