ふわり。
嗚呼、これは佐助が気に入っているシャンプーの匂いだ。
幸村はそう思い、風に乗って運ばれてきた匂いを目を瞑りながら深く吸った。
幸村はこの匂いが好きだ。この匂いがすればすぐ近くに佐助がいるのだと安心出来るからだ。
現に今もすぐ後ろには佐助が居る。
一生懸命、自転車を漕いでいた。
自分を後ろに乗せ、重い荷物を前の籠に詰め込んで、力なんかおそらく自分よりか無い癖に運転席を譲らなかった佐助は今、一生懸命にペダルを漕いでいた。
(こんな時ばかりはいつも見栄を張りおって)
可愛いやつ、と幸村は声には出さずに、そっと気づかれないよう笑った。
幸村は後ろを向いて座っていたので、佐助の顔を覗きこむことなど出来ないわけだが、それでも彼は今すごく汗だくで苦しげな顔をしているはずだな、と幸村は思う。
しかし「変わろうか」なんて愚問は聞かない。きっと今日佐助が「俺様が運転するよ。」と俯きながら言ったのは、彼なりに何かを思って言ったことなのだろうと幸村は分かっていたからだ。
(きっと最後まで俺の世話がしたいんだこいつは。)
もう彼の世話好きには、鬱陶しいを通り越して愛らしいな、と幸村は思った。
そうだ。愛らしい。
佐助の小さな呻きが耳に入った。
何事か、と思えば、すぐにその正体に気がつき、幸村は嗚呼、と笑った。
急な坂だ。きっと余り太くない、寧ろ男にしては細すぎる佐助の足にはとてもきついのだろう。幸村は思わず笑ってしまった。
「頑張れ佐助、あともう少しだぞー」
後ろで頑張っている佐助に出来るだけおどけながら幸村は言った。
すると、すぐに後ろから小さく、くそう、と悔しそうな声が幸村には聞こえた。
幸村はそんな彼がとても愛しく思い、ああ可愛いななんて思いながら、やっぱり笑った。
「くそう...」
それでも佐助は小さく悔しそうに呟いた。
幸村は笑い声を返してやった。
ゆっくりゆっくり坂を上っていく。
幸村は笑いながら、ふっと周りを見渡してみた。
人気が全然ない、誰も歩いていない。
嗚呼、そうか。たしか今は夜明けだったな、なんて今さら思い出し、何故だか寂しく感じた。
寂しく感じたが、妙に背中が温かく感じ、もしかしたら寂しくないかもな、と先ほどとは矛盾している事を頭の中で思っていた。
町は賑やかではない。
だけれど、確かに後ろからはあの心地よい温もりが感じるのだ。
そう思えば、この世界がなんだか二人だけのもののように感じ、幸村は笑うのをピタリ、と止めた。
「なんだか、世界中に二人だけしか居ないみたいだ」
幸村は静かに、そうポツリと呟いた。すると、何秒かの間が空き、佐助が「そうだねぇ」と返した。
やがて、沈黙。
もしかすると、と幸村は思う。
もしかすると、佐助は俺と同じ事を今思ったかもしれない。この沈黙の間に、思ったかもしれない。
この二人だけの世界はどれくらい残っているのか。
そんな事、分かりきっている。幸村は眉を潜めた。
(この坂を過ぎたら、もうすぐ駅だ。)
そしたらこの世界に俺は居られないだろう。
何故なら俺は、佐助の元から離れてしまうからだ。
のろのろと遅いスピードであった筈なのに、気がつけば自転車はもう坂を上り終えていた。
頬が暖かく感じ、何だろうと見てみれば、朝日がゆっくりと登りはじめていた。
それをぼんやりと見つめていれば、同じく見つめていただろう佐助が、呟いた。
「あの朝日が登らなければいいのにね。」
幸村は目を大きく見開いた。
理由は2つある。1つは余りにも佐助の声が震えていたせいだ。
嗚呼もしかして泣いているのか。
幸村はそう悟った。彼関連のこういう幸村の悟りは大抵当たってたりするし、幸村も結構当たっている自信はあった。
「.....ふっ」
そして笑いが込み上げてきた。
懐かしいな、と正直に幸村はそう思った。
目を見開いたもう1つの理由。
それは佐助の言葉だった。
聞いた事があった。遥か昔。同じ声で、同じ言葉を。
(そうだ。あの時も佐助は確かそっくりそのままそう言って泣いていた。)
あの時は拭おうとしたら殴られたな、と思いだしたら笑えてきた。
だから、今回は知らないふりをしてやろうと幸村はそう思った。
(でも残念だ。)
幸村は思った。
佐助は見栄っぱりだ。
だから言いたい事もすぐに喉の奥で飲み込んでしまう。
そんな彼が泣いてしまうなんて、嗚呼愛らしい。
幸村は思った。
そして気がつく。
己の為に泣く佐助はあの頃とは変わってないが、それを愛らしいと感じる自分もまたあの頃と変わっていない。
それくらい佐助は昔から愛らしかった。
(...ふ。俺も泣きそうだ。)
坂を乗り越えた自転車は、もう、目の前の駅に向かうしかなかった。
泣いてる君が、
懐かしい。
(それ以上に、愛らしい。)