「どうかお話をお聞き下さい幸村様」
佐助は地面に額をこすりつけながら静かにそう言った。
幸村は包帯を巻く為に動かしていた右手を止め、眉を潜めながら、とりあえずいつもの佐助では無いことを悟り、佐助に体全体を向けて聞くことにした。
「お手は止まらずとも結構でございます。しかし、耳だけはどうかこちらにお向け下さい幸村様。」
佐助は顔を上げずにそう告げる。
わかった、と幸村は言うが、手を進める事はしなかった。後でもいい、と思ったからだ。
じっと、幸村は佐助を見つめ、言葉を待つ。
「只今敵軍がこちらに進行中でございます。どうやら貴方様が城の中に居ない事がばれたようで」
「秀頼殿は、」
「城の中で自害したようでございます。時期城から炎が上がる頃と思われます。」
そうか、と幸村は目を瞑る。
ゆっくりと右手を動かし、首にぶら下げた六文銭をそっと触れた。
ふっと笑った。それをゆっくりと首から外す。
「ですが、まだ何人か味方は生きて戦っております。皆が誰かの指示を待っております。幸村様、」
佐助は顔を上げた。その時の彼は眉を一層深くし、多分自身の記憶の中では一番男らしい顔をしていたと幸村は正直にそう思った。
「どうか、皆の所へ行き、総大将としての指示を与えてやって下さい。どうかどうか、この先を進んで下さい。」
最後に幸村様、と呟いた。
幸村は無言で佐助に手を伸ばした。
伸ばした手は伸ばされた目標に届かずに止まった。
「俺は、」
幸村は伸ばした右手を佐助に触れさせずに、ぎゅっと空中で空気を握りしめた。
「俺は、お前が考えていること全てわかっておる。」
佐助はそれを聞くやいなやはっと目を見開いた。佐助の唇は紫色に変わっており、まるで死体みたいだと感じ、幸村は泣きそうになった。
「わかってくれ...、わかってくれ、旦那、」
紫色の唇がかたかたと震えて動いた。幸村は、佐助から目を離す事が出来なかった。
「旦那は、まだ、生きなければならない。旦那、アンタは馬に乗って、この道を駆け抜けろ。大丈夫、今からここに来る敵軍は俺様がなんとかここで食い止め」
「佐助。」
やっと固まっていた幸村の右手が動く。佐助の頬にそっと手を添えた。
びくり、と佐助は全身を震わせた。
幸村は微笑んだ。微笑んで言う。
「だから、わかっておると言っているだろう、佐助。」
幸村は外した六銭文をゆっくりと佐助の首まで持って行けば、そこに巻きつけた。
佐助はしばらく固まったのち、はっと気がついて、旦那、これは、と何かを訴えようとした。幸村はそれを死にに行くなら持っていろ、と微笑んで佐助の言葉を途中で止めた。
「どうせ、俺もお前も長くはないだろう。ならば死ぬ順番などどうでもいい。」
自分でも驚くような声の震えようだった。佐助かて驚いているだろうと幸村は思う。
「止めはせぬ、佐助。ただ一つ望みがあるが聞いてはくれるか」
佐助は幸村をただ見つめ何回も何回も頷いた。幸村はそんな佐助を見てふっと笑う。
そっと佐助の左手をとり、小指を立てろ、と優しく命令する。
佐助が怪訝な顔をすると、幸村はにこり、と笑った。
「昔、小さな頃お前が俺に教えた約束事をする時のまじないだ」
あれをやろう、と呟けば、佐助はぐしゃぐしゃと顔を崩した。そして泣き出す。今更何を、もう約束なんて守れねぇよ俺、なんて言いながら。
幸村はそれでも微笑んで佐助の涙を拭いながら、早く小指、と急かした。
佐助はおずおずと小指を出す。幸村はすかさずに己の小指を絡めた。
ぎしり、と力を込め、小指どうしが離れないように絡めた。
そして、優しく静かに、言葉を風にのせて佐助の耳にへと流した。
「約束だ。必ずいつの日にか、また会おう。」
佐助は目をゆっくりと見開いた。
もうすぐ、だって俺もあんたも、そう言って佐助は、嗚呼と頷いた。
幸村が言いたい事は、もう今からかなり先の話しなのだろう。目を凝らしても、見えぬ世界の話し。今が終わり、新しいいつかの日、また会えるように。幸村はそう思い、そして佐助も頷いた。
「その時は、ずっと側に居よう。」
「破ったら、どうするのさ」
「どうするのだ?」
「は、針を千本飲む、とか」
「ははは。それは惨い。」
だが、約束だ。そう言って幸村は繋いだ小指を小さく揺らした。
そうして、優しく笑えば、あまり本心から笑わない彼もまた、優しく笑った。
あまりにも泣きそうに笑うものだから、こっちまで泣きそうだと幸村は思った。
どこからか、遠くない所からがやがやと大勢の声が聞こえた。
佐助はふっと笑い、
「約束だよ」
なんて言えば一瞬で姿を変えた。
緑から赤へ。橙から栗色へ。
覚悟はしていたが、やはり幸村はやりきれなく思い、思わず彼を抱きしめたくなった。
だけど佐助は首を振り、唇だけで、音には出さずに「行って」と呟いた。
幸村は佐助にゆっくりと背を向け、馬へと跨った。
馬を走らせようとしたが、不安が頭と胸に渦巻き、上手く息が出来なくなった。
手放したくなかった、と幸村は思った。
守りたかった。守りたい。
そうぐるぐると考えていた。
しかし結論的には全てにおいて無理に等しかった。
だったら、と幸村は唇を噛み締める。
いつかまた、彼と笑える日がくるのだろうか。
不安が口の中で血の味と一緒に広がる。
不安だった。
だから思わず叫んだのだ。
もう一度、同じ言葉を叫んだのだ。
何回言うんだと笑われてもいい。
めいいっぱいに叫んだ。
記憶の中にある、笑った顔の彼が恋しかったから。
「約束だ!必ず!いつの日にかまた会おう!」
おばかさん。そう小さく後ろから聞こえた。
それと同時に、馬が力いっぱいに押され、驚いた馬は前へ走り出した。佐助が押したのだろう、と幸村はすぐに悟った。
不覚だ、と幸村は呟いた。
不覚だった。
後ろから聞こえた声が、涙声で優しく聞こえ、嗚呼、泣いてたのか、なんて思った時に気がつく。
嗚呼、不覚だ。
幸村の目から流れる涙は乾かなかった。自分は泣いているのか、と気がつけば余計に止まらなかった。
いつから、なんて愚問だった。
叫んだあの瞬間、自分の声はかなり震えていたと思い出す。
幸村は泣いていた。
もう、遠くなったかなり後ろから、刃が交える音が何個か聞こえ、それが聞こえなくなり、幸村は泣いた。
幸村は泣いていた。
あの泣き虫よりも泣いたのが、とても不覚だと幸村は思い、泣き虫の名を叫んで、泣いた。