それは、覚悟。




―――だが、悪いな


―――俺は、んなのごめんだよ




パァン
乾いた音が、その場に響いた。
じくりと痛む左頬に、土方は漸く自分が『彼』に叩かれたのだと知った。

「な…」

何故この場面で叩かれなくてはならないのか、生理的な涙で視界が潤んだ。
いや、それ以上にいつも優しいこの男が自分に手を上げた事に呆然とする。
喧嘩をした事がないなどとは言わない。なにしろ自分は自他共に認める短気者だし、『彼』は彼でとても喧嘩早い。目玉焼きには醤油かマヨか――ソースか、ではない――で朝っぱらから殴り合う事だってざらにある。
だけど、今の平手打ちは“いつも”のとは何処か違っていた。殴り合った時の拳よりもそれは痛い。こちらをじっと睨んでいる『彼』の発する空気は針の筵のようで肌がピリピリとする。

「っいきなり何すんだよてめぇっ!!」

ガッと、ショックから立ち直り胸ぐらを掴んで詰め寄ると、ぼそりと目の前の男から呟きがひとつ溢された。

「…ふざけた事抜かしてんじゃねぇぞ」

「!」

「俺は出陣する前 確かに言った」

地の底から聞こえて来るような怒りを、しかし出来るだけ冷静にと押し殺した声で諭すように語りかけられ、土方は思わず動きを止めた。

余計な感情は捨てろ。死を招く前にな

そう、『彼』は確かにそう言った。

「それは紛れもねぇ真実だ……だが」

「…」

その翠眼が土方の碧眼を射抜く。つぅ、と汗が伝った。

「土方、お前の言ってる事は間違ってる」

「え…」

言いながらザ…と、ゆっくりこちらに迫って来る、その静かな怒りを揺らめかす威圧感に思わずビクリと身体が震えた。

「仲間を思う気持ちは余計か」

「ちょ」

違う、自分が言いたかったのはそうではない、ただ、自分は、。
言いたいのに『彼』の空気に飲まれて上手く言葉を紡げない。

「お前を死なせたくねぇって思いは?」

ぎゅっと土方の細い手首が掴まれる。

「や…」

僅かに溢した抵抗の言葉も虚しく、あっという間に『彼』の腕の中にすっぽりと閉じ込められた。
それは余りにも温かくて、伝わる鼓動が力強くて、無意識にそっと手を回し返した。

(俺はただ、あんたを死なせたくないだけなのに?)


「俺は…誰も死なせたくねぇんだ…」

心の中でひとつ問いかけた瞬間、答えを返されるように『彼』は耳元でそう囁いた。

「んなこともわかんねぇのかバカ野郎…!」

「総督…」

悲痛を宿した叱咤に目頭が勝手に熱くなった。
どうしてなのだろうか。鼻を擽るのは安心感を与える『彼』の香り。

(俺はあんたを死なせないだけで精一杯なのに、何であんたは全員を背負えるんだよ……!?)

これは戦争だというのに、血生臭い殺し合いだというのに、生き延びる為に誰かを犠牲にしてはそれは『彼』にとって負けも同じなのだ。
人を助けるという事は口で言うより遥かに難しくて、自分で認識しているより遥かにリスクを伴うモノで。例え相手の命を救ったとしても、それ以上に相手の心を傷付けてしまえば結局はただの押し付けがましい恩の押し売り、ただの自己満足でしかならない。
出逢ったあの日から、決して縮まらない距離が憎い。
『彼』は大切なモノを護る事が出来るのに、『彼』に憧れて必死に剣技を磨き続けた自分は、大切なモノを生かすだけが限界で、大切なモノを護る事など出来ないのだ。

(俺は総督を死なせたくないのに、)

でも死なせたくない以上に望むのは『彼』の幸せだから。
自分が居れば『彼』は幸せなのだと言う程自惚れてはいないけど、誰かが自身の為に死んだとなればきっと『彼』は死ななかったとしても幸せにはなってくれないだろうから。

(嗚呼、俺は馬鹿だな)

今さら悟った。ちっぽけな自分に出来る事など最初っから何もなかったのだ。
この温かい腕にすがり付く外なくて、情けなさに涙が溢れる。それが余計に情けなくて押し留めようとするのに、意に反して後から後から雫は流れ出す。

(死なせたくない)

なのに何故自分は何も出来ない。

(死なせたくない!)

どうかあんたは幸せでいて。

この鼓動を止めないで、

この温かさを失(な)くさないで、


(あんたに拾われたからだけじゃない! あんたしか頼る人がいないからなんかじゃない!)

そんなモノではない。
そんな安易なモノなどではない。

(ただ俺は、ただ、あんたの事を……ッッ!)


この世の誰よりも、自分自身よりも、




(ただッッ……!)







ゴ、


(…………ゴ、?)

緊迫したモノローグを展開した次の瞬間、 何だかこの場面にそぐわないような暴力的な音が鳴り響いたかと思うと、土方――と抱き締め合った『彼』――のつい隣を天人の1人が宙に吹っ飛んでいった。
それは、ドサ、と間抜けな音を立てて地に落ちる。

「「!」」

驚いて意図せず二人同じタイミングでそっちを振り返ると、立っていたのは今ここに辿り着ける筈がないと思っていた銀色の男だった。



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