パシ、と気が付いたら乱暴にその手を払い除けていた。
「…土…」
呆然と驚いた『彼』の声が遠くに聞こえる。何処かフィルターを通したかのように。
土方がこんなにも顕著に『彼』に逆らった事などない。だからだろうか、無駄に空気が――周りの天人から発せられる殺気のせいだけではなく――重苦しく感じる。
「早く行けって言ってんだ!」
その息苦しさにもう限界だと思った瞬間、土方は叫んでいた。或いは一向に自分に背を向けようとしない『彼』を叱りつけていたのかも知れない。
何故なら自分は『彼』だけでも生きていて欲しいのだから。自分より『彼』に生きていて欲しいのだから。
何故それを分かってくれないのだろう。
「………」
『彼』は何も応えなかった。それは所謂“絶句”というヤツだった。その表情は珍しく呆気にとられているのだろう。
いつも余裕綽々で自分を振り回す『彼』が、今は自分の行動に余裕を無くしているのかと思うと、そんな場合ではないのに何処か面白かった。
ふ、と笑って土方は空を見上げた。
広がるのは下界で殺し合いが起こっている事を微塵も感じさせない澄みきった蒼。
ただの、蒼。
「…本当なら…あの時死んじまう筈だったんだ」
ひとつ思い出して淡い微笑みを浮かべたまま『彼』に語りかけた。
そう、自分は死ぬハズだったのだ。あの緋の中で、たった独りで。
(…あの時…)
ただ緋一色で塗り潰された世界で独り死んでいくハズだった。
何が自分の身に起きたのかは正直な所よく覚えてはいなかった。上が肌蹴た黒い着流しと、血に塗れた全身と、ボサボサに解けた黒髪とだけを持って自分はいた。果たしてそれはボコボコに殴られたのか、ボロボロに凌辱されたのか。分からなかった。考えても考えても、そこには緋が在るだけで。
自分が居たのは真っ緋な世界。
そんな時、拾って怪我の手当てをして助けてくれたのが通りすがりの『彼』だった。
「俺を生かしてくれたのはアンタだ。全てを…変えてくれたのは アンタ」
笑顔を取り戻させてくれたのも、この身に巣食う恐怖を取り除いてくれたのも、温かい仲間を与えてくれたのも、温かい居場所を与えてくれたのも、
そして、人を愛するという事を教えてくれたのも……。
いつだって自分は幸せだった。穏やかに笑う『彼』が、満面の笑みで見上げる自分の頬をゆるゆると撫でてくる、その一瞬がどうしようもなく好きだった。
緋でしかなかったこの視界が、今こんなにも色とりどりに輝いている。
戦場には朱が舞う、だけど空には蒼がある。夜叉と謳われる仲間の髪は美しい銀色で、狂乱を渾名される長髪の男の髪は夜空を閉じ込めた漆黒だ。
そして深い深い翠(みどり)を映す『彼』の瞳。心を奥に引き込む涼やかで妖しげな森の色。
ならば、このカラフルな世界をくれた『彼』に、命を賭して大恩を返すのに何の不思議があろうか。
「アンタの為に死ねるなら本望だ」
ゆるりと口角を上げ、顔だけ『彼』を振り返って土方は言った。
ただ穏やかに、そう言った。
「…それに」
それでもまだ動こうとしてくれない『彼』に、土方は更に言い募る。
「…それに、言ったじゃねぇか、アンタ。余計な感情は捨てろって」
今、自分が浮かべている静かな微笑みは、決して痩せ我慢から来るものではないのだろう。何処か客観的に土方はそう思う。
(さぁ、次で終わりだ)
次の言葉できっと『彼』を説得出来るに違いない。
少し“淋しい”気がするといえばするかもしれない。だけど『彼』の命と自分の想い、大切なのは迷う事なく命の方ではないか。
だから、だったら――…・
「だったらアンタも余計な感情捨てろよ」
「………、」
何も、『彼』は何も答えない。ただ険しい顔で土方を見つめついる。
さっきまでの焦りを失い、逸そ何処か静かに怒りを内包しているような表情に、僅かばかり怯んでしまうけど、『彼』は自分の言動の責任はきっちり取る人であるから。
これできっと『彼』は行ってくれるのだ。
―――それが、お前の生き方か
「…行ってくれ」
風に髪、衣、鉢巻が靡く。土方の、その後ろ姿は儚く、今にも消えてしまいそうな細い背中だった。
だけど誇りと信念と護りたいモノを背負った、侍の気高い背中だった。大切な『彼』の命を独り背負おうとする一人の少年の……、
―――俺に 自分(テメェ)の命捧げんのが、お前の―…
土方が心の底からニコリと笑う。
「…ありがとう、
総督」