「…ご飯にしましょうか」

松陽の呆れ混じりの提案に、反対する声がなかったのは言うまでもない。



 *



叔父が今から10年以上前に設立しといわれるこの私塾を、松陽が引き継いだのは、つい昨年のことだった。
身分の分け隔てなく入学出来ることを売りとしているが、藩の正式な許可を得た塾ではないため、実際は身寄りのない子供たちの単なる保育所的な役割が強い。
それでも、教師による講義より、塾生による討論に重きを置く独自の授業体制のためか、教育熱心な武士階級の親からも良い評価を得ている。

「だからお前、先生に感謝しろよ」

口に含んだ漬物を律儀に飲み下してから、誇らしげな調子で言い放った少年に、十四郎は曖昧な笑みで応えた。
どうやら、行き倒れていた自分を拾ったのは、いかにもお坊っちゃん風のこの少年らしい。そのことについて礼を言ったつもりが、何故か『俺の先生はスゲェんだぜ自慢』に発展し、だからお礼なら先生に言えなどと、ワケの分からない宣言をされてしまった。
その横で、もぎゅもぎゅと白米を口に頬張る銀髪の少年も、時折「ふぇふぁひふふふぃふぁ?」やら何やら解読不能なことを訊いてくるが、こちらもとにかく笑って流した。
出会って半刻、既にスルースキルを身に付けつつある十四郎である。

「おかわりはまだありますからね」

「ふぇんふぇーふぉははふぃ!」

「黙れ銀時、先生は十四郎に言ったんだよ!」

顔には出さないように気を付けていたが、常にこんな具合でギャイギャイ騒ぐ3人と、松陽が運んできた小さな卓袱台を囲んで昼食をとっている状況は、十四郎には些か居心地が悪かった。土方家では基本、食事とは静かなものだったのだ。
胸中だけで嘆息して、手にした茶碗からゆらゆらと立ち上る湯気を目線だけで追うと、茶色い板張りの天井にぶつかる。
果たしてこの向こうには、青空がいつもと変わらず広がっているのだろうか。だとしたら寂しいことだ。昨日起きた人生最悪とも思われる悲劇も、世界そのものには何の影響の与えない。

「ところで十四郎くん」

喧騒に満ちた昼食が一段落したところで、不意に呼ばれた自分の名前に顔を上げると、真面目な表情をした松陽と目があった。

「君はどうして、あんなところで行き倒れていたんですか?」

尋ねられた内容は至極真っ当で、予想出来たものだったが、事情が事情だけに、正直に答えることも憚られる。彼もまさか、人ふたり斬って逃げ出してきました、なんて物騒な実情を抱えているとは思っていないだろう。
どうしよう。
しかし迷ったのは一瞬だった。あまり間を開けずに答えれば、真実っぽく聞こえることを十四郎は今までの経験から知っていた。

「……家出して…道にまよって…」

呟くように答えた内容はしかし嘘ではない。ただ少々説明を省かせてもらっただけだ。
自分でも苦しいとは自覚していたが、そんな曖昧な言い分でも松陽は納得したのか――もちろん後々松陽に気を遣われたのだと気付くことになるのだが――「そうですか」と一言ののち再びにこりと表情を和らげた。それ以上追及する気はなさそうだ。
てっきり、何故家出したのかとか、親御さんが心配してるから帰ったほうがいいとか、良識に満ちたことを言われると覚悟していた十四郎としては安堵を通り越して拍子抜けしてしまった。
案外この私塾には自分と同じようなワケアリが多くいるのかもしれない。拒絶されることに過剰な反応を見せた銀時にちらりと視線を遣りながら十四郎は思った。

沈黙が場を支配しそうな気配がしたところで、そうなる前に松陽が「あぁ、そう言えば」と話題をふった。

「そもそも自己紹介が、銀時以外はまだでしたよね。私は吉田松陽と申します」

こっちは高杉晋助、と育ちの良さそうな少年の紫黒の髪を、くしゃりとかき混ぜる。「いてーよ」なんて晋助は抗議して見せるが、それがただの照れ隠しであることはバレバレだ。
その光景にふと為五郎のことを思い出し、胸がきゅぅと絞まった。

「…あ、ッッ……十四郎、です」

土方、とは喉に声がつっかえて言えなかった。こんな自分が土方姓を名乗っていいのか、いや、あの家から逃げ出してきた自分に名乗る資格があるのか分からなかったからだ。
とは言えども、今の時代、貧村ではまだまだ苗字を持たない農民も多い。だから別に名前しか答えなかったところで、たいして不自然でもない……ないはずだ。些細なことですぐに平常心をなくして騒ぎ出す心臓に、落ち着け落ち着けと言い聞かす。
案の定、松陽は気にした風もなく「よろしく、十四郎くん」と朗らかに片手を差し出した。

果たして、十四郎の逡巡を察した彼がこの時も気を遣ったのか、または本当に気にならなかったのか、それは後から考えてみても分からない。ただひとつ言えることは、この時の自分は差し出された手の意味を掴み切れず、ひどく困惑していてそれどころではなかったということだ。
はぐれないよう長兄と手を繋いだことは幾度かあれど、握手、というものを十四郎はしたことがなかった。記憶の底を掘り返せば、見た経験はあったかも知れない。
だが、それは通常友好的な人々が交わす挨拶で、まさかこの身に向けられる日が来ようとは露ほども思ってなかったのだ。

繊細で、しかし大きな手は、きょとんとする十四郎に暫し戸惑う素振りを見せたあと、心得たように頭の方へと進路を変更した。
先程、晋助の頭を撫でた優しげな手が今度は十四郎の頭を撫でる。その手のぬくもりに、ピリッとした電流のような既視感を覚えた。と同時に蘇る夕日、肩車、笑顔、温もり、火焔、狂気、鮮血、目玉、視線……。

「やッ…!」

背筋にぞわりとした悪寒が走り、それから逃れたくて、否、その悪寒が触れているところから相手に移って行ってしまうことこそを――そんなことがあるはずないのに――本能的に恐れて、考える暇もなく思わず手を叩き落としていた。
ぴしゃり、と乾いた音がして我に返る。

「ッッてめえ!」

「ご…ごめんなさっっ」

激昂したのは傍らにいた晋助だった。叩かれた本人は、読めない顔でこちらを見つめるばかりだ。
怒っているのだろうか。
ついさっき、その行動が意図せず銀髪の少年を傷つけたことを思い出して十四郎は消えてしまいたくなった。嫌な思いをさせてしまったのだろう。どうしていつもいつも自分は他人に不快な思いしかさせられないのか。罪悪感に押し潰されて松陽の顔が見れない。
せめて、もう一度謝ろうと口を開きかけたところで、しかしそれをその松陽が片手で制する。

「何を恐れているのですか?」

「……あ」

彼は怒っているようにも悲しんでいるようにも見えた。或いは憤慨しているようにも拗ねているようにも。
ただ、会ってからずっと続いていた柔和な表情が初めて崩れたのだけは分かった。

「『そういう子』はたまに見かけますよ。例えばここにいる銀時なんかも初めは『そう』でしたね」

ここでいったん言葉を切って、はぁ、と溜め息を吐き出す。何の話をしているのか、今の台詞では掴みきれなっかたらしい銀時と晋助が訝しげな顔をする。
引き合いに出された銀時さえその調子だというのに、松陽はお構いなしに「だからなまじ才能がある子は…」とすっかり自分の世界で独り言を重ねている。実は結構マイペースな性格なのかもしれない。

「私がそんなにヤワに見えますか?」

「せんせー華奢じゃん」

「銀時」

隙ありとばかりに茶々を突っ込んできた銀色のやんちゃ坊主をひと睨みで黙らせて、松陽が再び十四郎に向かい合う。一方、諌められた銀時は口を閉ざしたのは閉ざしたが、見つからぬようにこっそりベェと舌を突き出していたので完全に反省したわけではなさそうだ。

「これでも剣術は免許皆伝の腕でして、子供に抑え込まれるほど弱くはないつもりなんですけどねぇ」

のんびりした口調でそんなことを言ったかと思うと、松陽は目にも留まらぬ速さで……銀時をふわふわ頭をゴツンと小突いた。
殴った、ともいえぬほど手加減された一撃だったが、それでも痛かったものは痛かったらしい。突然のことに涙目になる銀時が「何すんだよ!」と憤慨するのに対して、「あなたさっき人に舌を出したでしょう」と松陽が説教する。そして一連の流れを眺めてぽかんとしている十四郎に気付くと、ふわりと優しい笑みで「ね?」と同意を求めてきた。
それは銀時を小突いた理由に対するものか、剣の腕前の片鱗を証明したことに対してか。

しかし、どちらにせよ、この人はツヨイ人なのだ。

何を根拠にしたのか分からない。少なくとも武術の心得があるわけでもない十四郎では、片鱗程度では、彼の強さなど推し量れるはずもないというのに、それでも自然とそう思えた。



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