1.


ぽつり、ぽつり、と灯る民家の明かりから逃げるように、十四郎は山道を進んでいた。
血濡れの着物はパリパリに乾き、漂う鉄錆びの臭いが気持ち悪い。家を飛び出すときには持っていた小刀は、ひどく穢らわしいものに思えて早々に捨てていた。

「いッ」

足の裏に激痛が走り、しゃがみこむ。暗闇に慣れた目で、僅かな星明かりを頼りに確かめれば、踏み締めた枝が草履を突き破って、かかとに刺さっていた。
『直ぐに消毒しねェと膿んじまうぞ』
いつだったか、畑仕事を手伝っている最中、同じように足の裏を怪我した自分にかけられた、兄からの優しい言葉を思い出した。
しかし、何時間も山道を歩いている十四郎の足は、すでに幾度も踏んだ枝や石で傷だらけだ。今さら消毒も何もないだろう、と刺さった枝だけ無造作に引っこ抜いて立ち上がる。
ピリッとした痛みも、兄はこの何倍も痛かったのだと思えば、大したことではなかった。

十四郎は妾の子だ。物心ついたときから母親とふたり暮らしだった。妾というだけで侮蔑の視線を送られながらも、母は柔らかな笑顔を絶やさず、ときには毅然と侮蔑を受け止めていた。強い人だったと思う。
彼女は病弱で1日中布団の中にいたが、それでも親子ぎりぎりながらも暮らしていけていたのだから、生活費は父親が出してくれていたのだろう。
『悪い人ではないのよ』
彼女がそう言って微笑むから、十四郎は父親を憎悪するつもりはなかった。
母が死んだあと、土方家に引き取られた自分に向けられたのは、やはり侮蔑の視線だった。
自分の出自は生涯変わることはない。きっと終生この視線がついて回るのだろうな、と幼いながらも達観した思いを抱いたのを覚えている。
母と父と、そして父の本妻との間に何があったのか、或いは何もなかったからこそなのかは分からないが、歓迎されていないことだけは確かだった。十四郎も、こんな扱いは慣れている、と突っ張った。甘えられる存在を亡くした十四郎は、それ以外方法を知らなかった。
そんなとき、手を差しのべてくれたのが長男の為五郎だった。
おそるおそる握り返した手のひらは、とても温かったのを覚えている。そこで十四郎は、母親が死んで以来初めて、笑うということを思い出した。
それから、他の兄姉たちの態度も少しずつ軟化していった。可愛がられることは終ぞなかったが、少なくともあからさまな態度をとられることはなくなった。問いかければ、つんけんではあるが答えてくれるようになった。聞こえるように嫌味を言われることもなくなった。よく働き、よく気がつき、器量も悪くない末弟を邪険にし続けることが出来なかったのだろう。もちろん家督を継いだ為五郎が可愛がっていたということも関係するのだろう。
『俺は大丈夫だよ』
最後の最後まで息子の将来を案じていた母親に、墓前でそう告げたのはまだ記憶に新しい。今の家は決してよくしてくれるわけではないが、ずっと好奇と侮蔑の視線に晒されてきた身としては、蔑まれなければそれで満足だった。愛情は為五郎が注いでくれる。十分だ。だからもう、母が心配することはないと思ったのだ。
しかし、それはただの勘違いだった。

十四郎は住んでいた村の方を振り返った。かなり山を登ったため、村は眼下に広がっていた。ひときわ輝くそこは、まだ炎に焼かれているのだろう。
村を覆った大火に紛れて、家に暴漢が押し入ったのはまだ今日のことだ。それでも、随分昔のことに感じられる。というよりは、現実味が薄いのか。
いっそ何もかも夢だったらいい。
暴漢に殺されかけたことも、そんな自分を庇って兄の両目が失われたことも、頭が真っ白になったことも、暴漢を斬ったことも、乾いた目玉も。あの光景すべてが悪い夢だったらいい。何より、一瞬で憎しみに呑まれた自分が、夢だったらいいのだ。
大切な人を傷付けた奴らを許せなかった。
死ねばいいと思った。
殺してやると思った。
そうしたら、何がなんだか分からなくなって、我に返ったときには暴漢は床に転がっていた。
母は強い人だった。対して自分は弱い人間だった。今は暴漢へと向いた憎しみの根源がどこにあるのかと考えると恐ろしかった。瞬間的に自分を支配した憎しみは、まるで長年蓄えられていたかのように巨大で、そして濃密なものだった。
溢れ出したどす黒いものは、実はずっと心の中に溜め込んできたものなのではないだろうか。母を不幸にした父親を憎み続け、それに気付かぬふりをして、実はずっと育ててきたのではないだろうか。父親を憎み、その血を引く自分を憎み、兄さえをも気付かぬうちに憎んでいたのかも知れない。
本当に父親を恨んでないのなら、兄の手を借りる前にこの家に慣れようと自分から努力するはずだ。
本当に自分を憎んでないのなら、暴漢に殺されかける前に逃げたはずだ。
本当に兄を愛しているのなら、彼が傷を負う前に助けようとしていたはずだ。
そんな、誰かがいたなら飛躍し過ぎだと窘められただろう考えを、しかし、今の十四郎には窘めてくれる人はいなかった。
うずくまる為五郎と、他の兄弟たちの怯えた目から逃げるように、着の身着のまま家を飛び出したのは怖かったからだ。今回はまだ良かった。だけど、この自分でもコントロール出来ない憎しみが、次に暴走したらいったいどうなるのだろう。それは誰に牙を剥くのだろう。
家が裕福となれば、今後とも暴漢に押し入られる可能性は高い。また今回のように自分を見失ったとき、そのとき床に転がっているのは暴漢だけではなくて、周りの人間全員かも知れないのだ。相手を倒した記憶がないとは、つまりそう言うことだ。理性が、見境がないのだ。

「うっ…うぅ、っく…」

母と一緒に死んでいれば良かった。
泣きわめきそうになって、そんな資格はないのだと思い直す。兄の、涙を流すための器官を、自分は奪ったのだから。
決して泣くまいと両目を見開く。しかし、遠くに見える村を焼く炎が、じわりと水分の膜で滲んだ刹那、十四郎は唐突に気が付いてしまった。
自分は火事から生き延びてしまったのだと。
この炎に呑まれて、村のみんなも家族も焼かれてしまったかも知れない。だけど自分は生き延びてしまったのだ。いや、逃げ延びたのだ。自らの喉を掻き斬れる可能性を持つ小刀は、どこかに捨ててきてしまった。
死ねばよかったと思う反面、死ぬ術を自ら放棄してしまった。
なんだそれは。そんなに己の命が可愛いか。
浅ましい!
浅ましい!
浅ましい!
浅ましい!

もう村の方を直視出来なくて、振り切るように駆け出した。
葉で頬が切れようが、枝が足の裏に刺さろうが、どうでもいい。生きようとも死のうとも、最早考えていなかった。
逃走りきった先に、昔のような温かい場所がある気がした。

この夜の森を抜ければ、きっと、母が微笑みながら朝餉を用意している我が家に辿り着けるのだ――…




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