怖い。
そんな感情を持ったのはいつの時だったろう。いや、持っていると自覚したのがいつだったのだろう。
ただこの幸せを壊したくなくて。永久不変なモノなんて何一つ在りはしないこの世界で、だけど永久に。
いつかは壊れるモノだと知っている。元々たくさんの“無理”の上に積み重ねた世界なのだ。崩壊はきっと一瞬で、ひとつが崩れれば連鎖的で、そしてそれが訪れるのはそう遠くない日のことに違いない。
だけど俺はこのぬるま湯の中に、ずっと浸っていたいから。
だから俺は毎日がとても怖いんだ。
*
(はやく帰らねェと…)
土方は帰路を急いでいた。といっても早歩きだ。本当は走りたいのだが、それでは自分があの男に対して余裕がないようで嫌だった。
そもそも本来はもっと早くに帰れるハズだったのだ。ただ不運にも、今日は普段にも増して処理しなければならない始末書が多かった。
ここ一週間は対テロ強化週間で屯所泊まりだったから、きっと自炊出来ないあのお坊っちゃんは餓死寸前だろう。どこかミステリアスな雰囲気を裏切って、果てしない馬鹿である彼は、どこまでもお坊っちゃんであるために『ちょっくら出来合いのモノを買ってくるか』とか思い付きもしないのだから。食事はテレビを見ている間に他人が用意してくれるモノだと本気で思っている節がある。
テロの準備とかで忙しい――こちらとしては非常に困ることだが――時など、ゆっくり食べる暇がないだろう? と、普段見廻りや張り込みでファストフード中心になってしまう土方は、以前そう訊いてみたことがある。
もっとも、なんでこの俺が忙しく駆けずり回らなきゃいけねェんだァ? と、真剣な表情で返されたのには、恐らく彼の分も駆けずり回っているだろう彼の部下に深く同情してしまったのだけれども。
やがて着いた私宅の扉をバッシーンと勢いよく開ける。
これは別に彼に早く会いたいと気持ちが焦っているワケではない。断じてない。ちょっと力加減を間違えただけだ。間違えただけといったら間違えただけなのだ。
別に“何”を期待していたワケでもない。
だって自分はただちょっと力加減を間違えただけなのだから、別に“何”を待ち望んでいたワケでもない。だから、
だから、
(だから、悲しんでなんかいねェ)
だから、家の中がシィンとしていたくらいで、何をがっかりしているのだろうか。何を傷つくというのだろうか。
普段は忠犬ハチ公宜しく土方の帰宅を玄関前で待ち構えているあの隻眼の馬鹿がいなかったからといって、だから何だというのか。
(何一つ問題ねェじゃねェか。寧ろ静かで清々すらァ)
ハンッと冷笑を浮かべて、その漆黒の隊服を脱ぎ捨てた。床に落ちるドサッという音がやけに大きく響いて、嗚呼そういえばいつもはあの男に『幕府の狗の象徴を俺の前で着るな』と、直ぐ様剥ぎ取られてしまっていたのだと思い出す。
だけどその反面、彼は土方の誇りでもあるそれを乱雑に放り投げる事はしなかったのだと今更ながらに悟る。
そう、いつだって性急に隊服を剥ぎ取られはするものの、一度もそれが床に捨てられる乱暴な音は聞いたことはないから。
鬱々としかけている己の思考に気が付いて、慌てて頭(かぶり)を振った。
「清々…すらァ」
もう一度だけ、先程心で思ったことを、しかし今度は声に出して呟いて、土方はぷつりと何かが切れたように布団の上に倒れ込んで眼を閉じた。
どこぞの天パではあるまいし、万年床なんて性格が許さず、朝出勤前にきちんと畳んで積み上げて行ったそれらを、敷くことさえ億劫だった。
*
隻眼の馬鹿が姿を現さなくなって早一ヶ月、ほぼ毎日のようにやって来て…というより最早土方宅に住み着いている状態だったのだから、これは異常だ。
(いや…異常でもなんでもねェのか)
今までの方こそが“異常”だったのだ。そもそも“無理”がありすぎた。テロリストに惚れた対テロ組織副長だなんて滑稽だ。
表面上どれだけ冷たい態度を取っていても、たかだか“情が湧いた”程度で土方が真選組を裏切るワケがない。いや、別に彼に幕府の情報を横流ししていたとか斬り合いの際にわざと逃がしていたとか、そんなことはしていないが、敵の男を想うなどそれだけで罪だろう。
そうだ。確かに惚れたのだ。自分はあのどうしようもないテロリストに。
“惚れていた”のか“惚れている”のか、考えてしまうのは突然姿を眩ませた男への最後の抵抗だ。
「副長」
嗚呼それでも、
「なんだ山崎」
思考では誤魔化せない部分が、
「鬼兵隊と春雨がどうやらゴタゴタを起こしてたみたいで…」
必死になって叫んでいる。
「なッ!? 高杉は無事なのか!?」
「は?」
「あ、いや、だから鬼兵隊側の被害は?」
「あぁすいません。そこまでは」
交わされる会話はどこか現実味が薄く、なのに無視出来ない心の叫びがグワングワン鳴って頭痛を引き起こした。
早く帰りたいと思った。
「いつのことだ?」
「正確には…。ですが一ヶ月以上は前のようですね」
耐えられなくて、何かが決壊して取り返しのつかなくなる前に、その会話を最後に土方は山崎を下がらせた。
始まりはあの男が一方的に自分に惚れたとかで押し掛けてきたのだったと記憶している。
あれよあれよという間にほだされてしまったのか何なのか、気付けば頑なに拒んでいたハズの関係を結んでしまっていた。
『二重苦だ』
言ったのは土方だったか。男同士の上に敵同士。禁断にも程があると、家同士の仲が悪く結果死んでしまった彼(か)の有名な悲劇物語よりも酷いストーリーだと。
『三重苦のヘレン・ケラーでさえ乗り越えたんだ』
返したのは男の方。
彼らが死んでしまったのは…悲劇に終わってしまったのは二人が諦めてしまったがため。二人が逃げようとしたため。
『立ち向かえ。その方が“らしい”だろ?』
(あぁ、そうだな)
脳裏に響いた言葉に肯定する。
自分も彼も決して逃げなかったから今ここにいる。その強い魂にお互い惹かれたのだから。その強い魂のせいで今この立場で、更には身動きが取れなくなっているとはいえ。
そう、互いに、だ。
互いに惚れた。
彼がいなくなった現在でも土方はその想いを――自分のも、相手のも――疑っていない。確かに“それ”は存在していた。
(していた、んだ)
“している”ではなく“していた”
会えば直ちに抜刀と罵倒、愛を囁くなんてできやしない。無愛想で目付き最悪で体型だって女と比べれば決して華奢ではない。あの傲岸不遜で傍若無人で唯我独尊で跳梁跋扈で横行闊歩で…“傲慢”を表す四文字熟語のどれもが当てはまる男は、きっと思い通りにならない自分に嫌気がさしてしまったのだろう。
春雨との一件で身動きが取れないという可能性もなきにしもあらずだが、だからといって“それ”がいまでも存在“している”と言える程、土方は彼のように傲慢にはなれなかった。
*
ガラリ、
自宅の玄関を開ける。
目の前にあの男の色である派手な緋色が見えた気がして、とうとうイカれた脳ミソに笑いが漏れた。
「何笑ってやがんだァ?」
「え…?」
思わず唇からこぼれ落ちた音は、間抜けな響きで土方の私宅の空気を震わせた。自分に向けられた男の声は、余りにも現実感がなくて、咄嗟にまともな反応を返すことが出来なかった。
嗚呼、だって幻であるハズの緋色が消えない。
だって幻であるハズの男の声が聞こえる。
だって幻であるハズの男の匂いが鼻孔を擽る。
だって幻であるハズの男が頬を撫でてくる感触が確かにする!
「痛ェなてめえ、何しやがる」
気付くとその幻を突き飛ばしている自分がいた。
突き飛ばした自覚さえもなく、男の上げた不機嫌丸出しの声でそれを悟ったくらいだ。
「お前は……!」
言いかけた言葉がみっともなく震えた。痛みに顔を顰めていた男が驚いたようにひとつしかない眼を見開いた。
「…何…泣いてンだよ…」
呆然としたように呟かれた。なら、この両眼が熱いのは泣いてるからか。
「お前は! ……お前がッ、いなくなるからだ!」
言いながら自分が酷く女々しく感じた。
「土方?」
男が混乱しているのが分かる。当たり前だ、本来敵同士なのだからいつ失っても構わないよう互いに準備していたのだから。
一体どの時点で距離を図り間違えてしまったのだろう。この自分が人前で涙を見せてしまう程近付き過ぎてしまった。
(しかも俺だけ、俺だけ!)
「お前がッ、俺ァ分からねェ! 俺ァ簡単に距離を図り間違えたってのに、どうしてお前は!」
「ちょっ落ち着け、言ってる事に脈絡がねェぞ。何泣いてンだよ。またサドガキと地愚蔵に首輪プレイされたか? 葬式で幽霊見たか? 銭湯で戦闘民族と鉢合わせしたか?」
「違ェ! 俺ァお前が、お前は俺をしってるじゃねェか! なのに俺ァお前が普段何してるのかッ当たり前だけど! 俺ァ敵だけど! 俺ァお前を分かれねェ! ただ…!」
自分は鬼兵隊と春雨が一悶着起こした事を一ヶ月も経って漸く知ったのだ。そもそも鬼兵隊と春雨が繋がっているなど知らなかった。紅桜の一件だって気付けば全て終わっていた。伊東の一件だって最後の最後まで鬼兵隊が絡んでいると知らなかった。
アジトだって知らない。居場所だって知らない。彼が来なくなったら簡単に終わる関係だと、この一ヶ月で思い知った。
「ただ…、終わるのに俺の意思は要らねェ。それだけは分かった」
魂が抜けたような、呟きというよりため息になってしまった言葉に、自分自身呆れ返る。
終わってくれと言っているようなモノだ。この奔放な男には大層重い告白だっただろう。
(嗚呼、終わりか…)
断罪の時を待つ死刑囚みたいだと思った。
やがて、
予想に反して聞こえてきた「クックッ」という男特有の笑い声に驚いた。
「なんだ、『わかれねェ』って“分かることが出来ねェ”か。てっきり“別れねェ”だと思ったのになァ?」
「はぁ?」
突然何を言い出すのかこの男は。
「つまりは、お前は俺を知りてェんだろ?」
「だ、だから何だ」
「立派な独占欲じゃねェか」
次の瞬間、急激に強く香った男の匂いに、抱き締められているのだと理解した。
「お前こそ分かりにくいだろが」
この男はどうして、躊躇いなくこういうことをしてくるのか、耳元で囁くなんて反則だろうに。
「言い寄ったのは俺だったからな、好かれちゃいるとは思ってたが、冷たくされると案外へこむんだぜェ?」
クックッと笑う声に、実はこの隻眼の青年も自分がこの一ヶ月味わった思いをずっとしてきたのだろうかと考えた。
だが、それを直ぐに否定する。その自信家な性格からして、おそらく自分ほど弱気になりはしていないだろう。
「高杉…」
そっと背中に手を回してみた。それを歓迎するように男の腕に更に力がこもる。
「でも高杉、俺ァ距離を図り間違えたんだぞ?」
「あぁ?」
「俺ァ総悟が死んだら何がなんでも仇をとってやる。山崎や他のどの隊士が死んでもその想い全部背負ってってやる。万事屋が死んだら一年に一回ぐれェは手向けに酒を撒いてやってもいい。近藤さんは…まぁ俺のが先に死ぬから問題はねェが。だが…」
「だが?」
「お前が死んだらと思うと、何も浮かばねェ。ただ怖いんだ。そんなとこにまで来ちまった」
土方は、焦げ茶色した木貼りの天井を見上げるようにして、ほぅと息を吐き出した。
生きることと生きていることは違う――生きる意志を持って生きることと漠然とただ生きているのでは違うのだ。
きっと高杉が死んだら生きていられない。幾ら真選組があるとはいえ、守るべきモノを守るだけ、そんな“生きている”生き方しか出来なくなるだろう。
仕事はやりがいがある。だけど“楽しい”という感情を持ったのはいつぶりだっただろう。戦闘で感じる“愉しい”とはまた違ったそれを与えてくれたのは目の前の隻眼だった。
破天荒なその行動に散々振り回されたが、確かに胸中に宿っていた感情は“楽しい”だった。
敵に抱いてはいけない感情を抱く、そんな図り間違えた距離にまで来てしまった。
「今更だろう土方、そんなの今更だろう?」
「え、」
「敵同士、こうしてる時点で今更だろうぜェ?」
くつりと抱き締めてくる男が耳元で笑った音がした。
「俺も、諦めようと思ったさ」
高杉は土方をきつくきつく抱き締めたまま、吐息のような声でそう言った。いつも無駄に自信に満ち溢れた男にしては珍しく、どこか声は震えていた。
高杉が私宅を訪れなかったこの数日間の理由は、これだったのだと知る。
(お前ェも、怖くなったのか?)
いつ終わっても不思議ではない関係に。
もし今相手が斬りかかってきたとしても、裏切りだと卑怯だと罵ることは決して出来ない。本来敵である自分達では、寧ろそれが正しい在り方なのだから。
「お前ェも、怖くなったのか」
密着する両腕の温もりの心地よさに泣きそうになりながら、土方は今度は疑問でもなんでもなく、そう言った。
嗚呼、この男も怖くなったのだ。いつ壊れても不思議ではない関係の危うさに。
この温もりが、相手を斬るための偽りだったと、作戦だったと、この瞬間でさえ手のひらを返される可能性があるのだ。
高杉は何も言わなかったから、本当のところその想像が正解かどうかは分からなかったが、抱き締めてくる腕がぴくりと跳ねたのだけは分かった。
「どうすりゃいいんだろうな」
ややあって、土方は呟いた。きっと自分は情けない表情をしているのだろう、抱き締められて男に顔を見られなくて良かったと思うと同時に、腕の拘束を解いて煙草を吸わせてくれないかとも思った。
このままでは甘い空気に溺れて依存してしまいそうで、どうか苦さを思い出させて、現実に引き戻して欲しいと願う。
「高杉、俺は…」
「どうもしなくていいだろうぜ」
だけど高杉はより一層深く身体を密着させてきて、それを許そうとしない。
言葉遣いは常のようにひどく傲慢な自信に溢れたモノだというのに、どこか弱々しい縋るような響きを持っていた。無理やり振り払ってしまえば、或いは男が崩れてしまいそうで、抵抗どころか少しの身動ぎも出来なかった。
「土方ァ、お前ェは俺と会えなかった1ヶ月どうだった?」
「どうだったって…」
そんなことを訊くのは卑怯だと思う。今更だろう。既に自分は感情を爆発させ、全てこの男にぶつけてしまった。
そんな意味を込めて口を噤むと、ククッと独特の笑いが男から漏れた。振動で身体が揺れるのが伝わる。
「俺ァ駄目だ。結局なかったことになんざ出来なかったンだよ」
たっぷりと自嘲を含めて放たれた台詞は、だけども一方で確かな愉悦と満足感を感じさせる甘い声で奏でられていた。
「どうせ離れられねェンだ。手放せねェンだ。だったら、だったらいっそ…」
「高杉、」
熱に浮かされたかのように続きを口にしかけた高杉を、土方は静かに名を呼ぶことで諌めた。
その続きは言ってはいけない。そして、その続きは聞いてはいけない。そう決めた。
(嗚呼、何が『どうすりゃいいんだろうな』だ。馬鹿か俺ァ)
諦めたような達観したような、乾いたため息が心中で漏れた。
始めから答えなど分かりきっていたのに、結局自分は高杉に判断を任せてしまった。自分から決まりきっている答えを口に出すのが怖くて、高杉にギリギリまで追い詰められて漸く言うことが出来た。
高杉に言うように仕向けられてもらったのだ。
嗚呼、なんと卑怯で浅ましいのか、鬼と呼ばれているはずの自分は。
「そう決めて始めたんだろ」
だから土方は懺悔も込めてそう言った。笑みさえ浮かべて、いっそそれが幸せに繋がるのだと信じきっているような穏やかな表情で。
すると高杉もクッと喉を鳴らして「そうだな」と言うだけに留めた。
自分の顔は当然ながら、抱き締め合っている体勢のため相手の顔も見えない状況で、互いに感じるのは互いが笑う気配だけだけど、きっとどちらも泣いているんだろうことは二人とも本当は分かっていた。
分かっては、いた。
最後の時まで離れないから、最期の時はお前が終わらせろ。
(隻眼の男はそう言い直し、両眼の男は悲哀に満ちた幸福の中、ただ頷いた)