「血ィ、出てるぞ」
そう言って、何処までも穏やかで凪いだ灰水色の瞳が、だけど裏側に何かを隠し持っているかのような深淵を湛えて見据えてきた。
目線の先は右腕。
「てめえにゃ関係あるめェ」
高杉は一言の元に目の前の視線を切り捨てる。男に心配されているのだとは思ってはないが、それでも負傷部分を見られるのは気が引けた。
生き方の問題か、はたまた生来の性質か、他人に弱点を晒すことに些かどころではない抵抗がある。それがこの男に対してならば余計だ。
怪我を負ったのは不本意だったが、あの状況を考えれば致し方ないだろう。まさしく一対多だった斬り合いを思い出して、高杉はくつりと笑う。油断していたワケではないが、慢心はあったかも知れない。危険だと言い募る部下を下がらせて、幕府が幅を利かす江戸の町をひとり月見の散歩と決め込んだのは、確かに迂闊としか言えない行動だったのだから。
暫くして、大勢の役人――夜目で分かりにくかったが、おそらくあの漆黒の制服は真選組だろう――に囲まれてしまったとき、高杉の周りに味方はいなく、よくもまぁ腕の斬り傷だけで済んだものだと、後に万斉に呆れられた。
「世界を壊すにゃ一筋縄じゃいかねェ部分も多々あるからなァ。特にあの躾のなってねェ狗共」
てめえが無駄に基盤をしっかり築き上げてくれやがったからなあの組、と揶揄半分に嗤って見せれば、逆に男に微笑みを返される。
「てめえに傷を付けれたなら、今まで組に心血注いできた甲斐があったな」
「被害はそっちのが甚大だろうに」
「そういう問題じゃねェよ」
「…なんだ、そりゃぁ」
「おれのそんざいするアカシ」
ふ、と、紅でも履いたかのように熟れた唇が弧を描く。それは美しく綺麗で、しかしぞくりとする背徳的な笑みだった。
黒と、白と、紅で、構成された男。
背筋が戦慄いた。
世界に喧嘩を売る自分のことは棚に上げて、男の笑みがひどく穢れたモノに感じたからだ。汚くて穢くて、別に自分に害をなすワケでもないのに、視界に捉えるだけで吐き気を催す。凄まじい嫌悪感。目の前にいるのは、とても綺麗で、とても穢れた男。
「高杉の傷、俺がいなかったら付かなかったろ?」
男が嗤う。俺がいなかったら真選組はここまで勢力を持たなかったろう、と。
愉しそうに目を細める男は、実は自分より遥かに頭が壊れているのではないかと思った。
「てめえは俺のせいで傷を負ったんだ」
「自惚れだな」
「それでもその傷は、おれがそんざいしてる、しょうこ…だろ?」
ことりと可愛らしい仕草で首を傾げ、艶やかな黒髪が横に流れる。
ちらりと覗く舌が負傷した腕に近づく。
「酔ってんじゃねェぞ」
ぴちゃり、ぴちゃり、滲む朱を舐めとる音が響いて、余りの色香に噎せ返りそうだ。
勿論そんな余裕のない様など晒すつもりはないが。
「…酔ってねェよ」
不機嫌そうに返された言葉の、なんと説得力のないことか。
赤く染まった目尻が、腕を這う舌の熱が、とろんと酩酊したように溶けた眼差しが、常のこの男の様子と異なっていることを知らしめているというのに。
これは卑下だと高杉は知っていた。いっそ気味が悪い程にこの男は自分自身を厭うている。
一連の男の行動はそれに起因しているのだ。
冷徹な鬼と呼ばれながら、部下に命令を下しながら、何故そんなに臆病なのかと疑問に思う。結局こいつは怖いのだ。自分が『自分』だけで己を確立出来る程の価値があると思っていないから、他人に刻まれた『自分』を見ると安心する。『自分』に刻まれた他人を見ると安堵する。逆を言えば、他人を通してでしか自分を確認できない性分なのだ。
だから、男をこんな行動に走らせる原因は自身への卑下だ。
決してブレない軸を持つ近藤に依存し、一歩間違えば殺されるようなスキンシップを加える沖田を享受し、どれだけ傷付けても構わない高杉に寄りかかる。
サディストでありながら真性のマゾヒスト。気持ち悪いと蔑んで見せても、きっとこの男は愉悦を湛えて笑うのだろう。
傷付けることさえ出来れば、高杉の反応などどうでもいいのだ。
ぞくりと背筋が戦慄く。一心に血を舐め取り続ける姿に嫌悪を覚えた。
うざい、汚い、近寄るな。
そう本気で思うのに、こうして今も男と逢い引きしているのは、きっと踏みにじる瞬間を愉しみにしているから。全く手前勝手な意趣返しだ。僅かに抱いた興味を裏切って、自分を失望させた意趣返し。
初めて見た時は、信じた道を真っ直ぐに進む為なら幾ら自らが穢れようとも構わない鬼みたいな奴だと思った。そう、修羅の道を押し進む高杉自身と同じ、鬼。
だが違った。実際の男は、幾ら自らが穢れようとも真っ直ぐにしか進めない不器用で非力なただのヒトだった。それを知ったのはいつだったか、いや、いつだっていい。とにかく感じたのは失望だったのだから。
目的の為なら何だって切り捨てて行ける――畦道に誰が転がろうとも構いはしない。そんな血濡れた道を、同じモノを見れる奴だと、例えるなら地球上にたった二人残った同種族のイキモノのように思っていただけに、はっきりと失望したのだ。
未だ高杉の腕の朱を舐めたままの男が、ひどく苛立たしいモノに感じて、さらりと流れる黒髪を鷲掴んで、ガツンと畳に押し付けた。
「うぜェ」
この美しく見える男も、結局くだらない世界の一部でしかない。天人に搾取され、それを享受する、そんな甘ったるくて弱々しくて脆くて――それゆえに国のために蜂起した攘夷志士を裏切った、そんな世界でしか。
穢れた道を選ぶのではなく、選ぶしかなかった非力な…。
「うぜェ」
もう一度だけそう吐き捨てて、高杉はそれっきり視線を向けようとしなかった。
――嗚呼、いっそその白い喉を斬り裂けば、きっと噴き出すだろう紅と同じように、この胸に詰まった苛立ちもなくなるのだろうか。
 ̄ ̄
妖艶な土方さんを目指して撃沈。
私的には、何だかんだで土方を拒絶出来ない高杉と身体目当て(笑)な土方の高→土だと言い張る